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2009年1月

2009年1月25日 (日)

ICTは授業の「補助的な手段」なのか 8

 先に引用した「文部科学省『学習指導要領解説:総則編』の次の部分が特に重要だ。
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 各教科等の指導に当たっては,教師がこれらの情報手段に加え,視聴覚教材や教育機器などの教材・教具の適切な活用を図ることも重要である。これらの教材・教具を有効,適切に活用するためには,教師はそれぞれの情報手段の操作に習熟するだけではなく,それぞれ情報手段の特性を理解し,指導の効果を高める方法について絶えず研究することが求められる。
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 「情報手段の操作に習熟するだけではなく、それぞれの情報手段の特性を理解する」という部分は、正鵠を射ている。特性を理解できていないので、効果的な使い方ができないのである。
 こうした「ICTの指導効果を高める方法の研究」は、学校現場ではあまりやられていないのが現状ではないだろうか。

 多くのICT研修が「ワードの使い方」「パワーポイントの使い方」といった操作技能研修になっている。たしかに、操作技能を高める研修も必要なのではあるが、それだけでは「情報手段の特性理解」にはつながらない。
 実際に、「情報手段の特性を理解する」という目的をもったICT研修が求められている。そのためには、教師自らが学習者となって「情報手段の特性」を体験的に理解する場が必要になる。

2009年1月23日 (金)

ICTは授業の「補助的な手段」なのか 7

 小中学校の教師が日常の仕事をする上では、ICTはそれほど重要な技術ではないのだと思う。電子メールを使わなくても学校内外の連絡はとれるし、指導書があれば授業はできる。学級通信は手書きでもよいし、成績処理も電卓でOKだ。インターネットがなくても、特に不便さは感じないだろう。

 しかし、21世紀の社会で活躍する子どもたちにはICTは必要不可欠な道具となるだろう。ICTスキルのみならず、獲得した情報をもとに批判的に思考する力や他者と協調してアイデアを発信しながら問題を解決していくための力は、高度情報化社会に求められる力であるからだ。そのような力を高めるための単元が増えてきていることも事実である。

 教師は、自分ができなこいことを子どもたちに教えることに大きな抵抗を感じる。自信がないからである。ICTに関する単元が増えたとしても、それを教師が充実させきれなければ意味はない。

 次に引用する文は重要である。何の文献からの引用か分かるだろうか。

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 児童に基礎的・基本的な知識・技能を習得させるとともに,それらを活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等を育成し,主体的に学習に取り組む態度を養うためには,児童がコンピュータや情報通信ネットワークなどの情報手段に慣れ親しみ適切に活用できるようにすることが重要である。また,教師がこれらの情報手段や視聴覚教材,教育機器などの教材・教具を適切に活用することが重要である。
 社会の情報化が進展していく中で,児童が情報を主体的に活用できるようにしたり,コンピュータで文字を入力するなどの基本的な操作,情報モラルを身に付けたりすることは一層重要となっている。このような情報活用能力を育成するため,今回の改訂において,「各教科等の指導に当たっては,児童がコンピュータや情報通信ネットワークなどの情報手段に慣れ親しみ,コンピュータで文字を入力するなどの基本的な操作や情報モラルを身に付け,適切に活用できるようにするための学習活動を充実する」ことを示している。各教科等においては,国語科における言語の学習,社会科における資料の収集・活用・整理,算数科における数量や図形の学習,理科の観察・実験,総合的な学習の時間における情報の収集・整理・発信などコンピュータや情報通信ネットワークなどを活用することとしているほか,道徳においては情報モラルを取り扱うこととしている。
 すなわち,コンピュータや情報通信ネットワークなどの情報手段の活用に当たっては,小学校段階ではそれらに慣れ親しませることから始め,キーボードなどによる文字の入力,電子ファイルの保存・整理,インターネットの閲覧や電子メールの送受信などの基本的な操作を確実に身に付けさせるとともに,文章を編集したり図表を作成したりする学習活動,様々な方法で文字や画像などの情報を収集して調べたり比較したりする学習活動,情報手段を使って交流する学習活動,調べたものをまとめたり発表したりする学習活動など,情報手段を適切に活用できるようにするための学習活動を充実することが必要である。
 また,インターネット上での誹謗中傷やいじめ,インターネット上の犯罪や違法・有害情報の問題を踏まえ,情報モラルについて指導することが必要である。情報モラルとは,「情報社会で適正な活動を行うための基になる考え方と態度」であり,具体的には,他者への影響を考え,人権,知的財産権など自他の権利を尊重し情報社会での行動に責任をもつことや,危険回避など情報を正しく安全に利用できること,コンピュータなどの情報機器の使用による健康とのかかわりを理解することなどであり,情報発信による他人や社会への影響について考えさせる学習活動,ネットワーク上のルールやマナーを守ることの意味について考えさせる学習活動,情報には自他の権利があることを考えさせる学習活動,情報には誤ったものや危険なものがあることを考えさせる学習活動,健康を害するような行動について考えさせる学習活動などを通じて,情報モラルを確実に身に付けさせるようにすることが必要である。その際,情報の収集,判断,処理,発信など情報を活用する各場面での情報モラルについて学習させることが重要である。また,子どものインターネットの使い方の変化に伴い,学校や教師はその実態や影響に係る最新の情報の入手に努め,それに基づいた適切な指導に配慮することが重要である。なお,携帯電話の利用の問題に関しては,学校においては,家庭との連携を図りつつ,情報モラルを身に付けさせる指導を適切に行う必要がある。
 各教科等の指導に当たっては,教師がこれらの情報手段に加え,視聴覚教材や教育機器などの教材・教具の適切な活用を図ることも重要である。これらの教材・教具を有効,適切に活用するためには,教師はそれぞれの情報手段の操作に習熟するだけではなく,それぞれ情報手段の特性を理解し,指導の効果を高める方法について絶えず研究することが求められる。
 また,校内のICT環境の整備に努め,児童も教師もいつでも使えるようにしておくことが重要である。
 なお,児童が安心して情報手段を活用できるよう,学校においては情報機器にフィルタリング機能の措置を講じたり,情報セキュリティの確保などに十分配慮したりすることが必要である。

(文部科学省「小学校学習指導要領解説:総則編」)

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2009年1月22日 (木)

ICTは授業の「補助的な手段」なのか 6

 ICTの活用を推進する上でやっかいなのは、スキルの問題である。活用する上では、ある程度のスキルが必要だからである。

 パーソナルコンピュータを「Intellectual Bicycles(知的自転車)」という言葉で語ったのは、Steve Jobs氏である。自転車の発明によって、人間が本来もっている身体的な能力を大きく拡大させた。それと同様に、パーソナルコンピュータの発明は、人間が本来もっている知性的な能力を大きく拡大させるという意味である。
 
 自転車を乗りこなすには、技能が必要である。だから、最初の段階ではスキルアップが必要になる。ICTのスキルアップトレーニングは、楽器や語学のトレーニングと似ている。ある程度、継続して行わなければ身につかないからである。
 たとえば、映像を取り込んで加工して提示するというスキルは、年に一度の研修程度では身につかない。学校内で「デジカメをコンピュータに取り込もう」「ビデオカメラで映像を編集しよう」といった研修を年に一回程度行ったとしたとしよう。その場ではできたとしても、すぐに忘れてしまう。日常的に行わなければ身にはつかないのである。

 自転車の練習も同様である。最初の段階では、たとえ転びながらでも毎日少しずつ練習していくうちに身についていく。たまに練習したとしても、乗れるようにはならない。
 しかし、ある程度スキルアップできると、自然と使用頻度が高くなってくるので、乗りこなせるようになっていき、忘れることはない。

 そう考えると、学校の現場においては、集中してスキルアップを図る時間と場を準備しなければならない。しかし、そのような研修を行っている学校は皆無であろう。結局は、教師個人にまかせているのが現状だ。そうなると、ICTの活用は、教師によって大きく差が生じてくる。(実際にそうなっている。)

「ICTはあくまでも授業の補助的な手段である。」という主張は正論のように思えるが、そのように考えているうちは、「補助的な手段」にさえもなりえないだろう。スキルアップ研修を軽視するからである。

2009年1月20日 (火)

ICTは授業の「補助的な手段」なのか 5

 多くの人々と話をしていて、認識が異なるなと感じることがある。それはICTの捉え方だ。
 多くの人々は、ICTをハードやソフトのことだと思っている。ICT=コンピュータという捉え方である。
 だから、「ICTの活用」というと「コンピューの活用」と捉えがちだ。
 もちろん、ハードやソフトはICTの重要な部分ではあるが、それそのものではない。

  Information Communication Technology とは、言うまでもなく「情報」と「コミュニケーション」に関する技術である。
 そして、授業もまた「情報」と「コミュニケーション」によって成り立っている。「情報」を子どもたち同士の「コミュニケーション」の中で意味のあるものにしていく営みであるからだ。教師が考えるのは、どのような情報をどのような形で子どもたちに投げかけ、子どもたち同士のコミュニケーションを組み立てていくかということである。
 だから、重要なことはハードやソフトではなく、「情報」の中身であり、「コミュニケーション」の在り方なのである。

 プレゼンテーションで考えてみよう。効果的な情報を提示できれば、別にコンピュータでなくてもかまわない。実物投影機でもよいし、実物そのものでもかまわない。
 また、情報を映像として提示さえすれば、相手に理解してもらえるというわけでもない。情報を発信する側と受信する側とのコミュニケーションがなければ、効果は半減するはずだ。一方的な説明で終わる講師もいれば、相手に対して問いを投げかけたり、作業をさせたりして双方向のやりとりをする講師もいる。

 以前「『ICT活用』の研究は、ICTの研究ではなく、授業研究そのものである。」と述べたことがある。だが、そのためには、教師側にある程度のスキルが必要になってくる。たとえば、写真の取り込みや投影といった「作業」に多くの時間がかかるようであれば、写真そのものを「情報」として吟味する余裕がなくなるからである。

 だから、ICT活用研修の場合、どうしてもスキルアップの部分が最初に必要になってくる。
 しかし、多くの学校現場ではスキルアップのレベルで研修がとどまってしまうので、「ICT研修=コンピュータのスキルアップ」というイメージが定着してしまったのではないだろうか。本来は、スキルの部分を抜きにして、「情報」と「コミュニケーション」の中身について、考えていかなければならないはずだ。

2009年1月18日 (日)

ICTは授業の「補助的な手段」なのか 4

 昨年に見たプレゼンテーションの中で最も面白かったものの一つに、ベネッセコーポレーションの新井健一氏が発表した「ICTの教育利用に関する現状と課題」というものがある。
 これは、各国の年齢別人口比率や国内総生産、国際競争ランクなどの資料を次々と提示していきながら、課題を明確にしていくというものだった。提示される画面のほとんどがグラフである。
 各国が21世紀の高度情報化社会に向けて国策として着々と準備をすすめているの対して、日本が大きく出遅れていることを指摘している。
 ICTの利活用とはコンピュータの操作技能ではない。獲得した情報をもとに批判的に思考する力や他者と協調してアイデアを発信しながら問題を解決していくための力なども含まれているのである。
 教育の果たす役割は大きい。(つづく)

ICTは授業の「補助的な手段」なのか 3

 デジタルイミグラント(移民)に共通することもあるのではないだろうか。たとえば以下のようなことだ。
 ○ デジタルとアナログ を 区別する
 ○ ネットの世界 を バーチャル(仮想)な世界だと思う
 ○ ICTと自然を相対するものと考える
 ○「アナログの良さもあるよね」といった言葉に安心する

 教育研究会などで「デジタルの良さも大事ですが、やはりこのような場面ではアナログの良さも忘れてはいけませんよね。」とか「子どものうちは、ICTに触れることではなく、自然や人間に直接ふれていくことこそが大切なのです。」といった言葉を聞くと、「そうそう」と頷いてしまう。私自身もそうだ。

 このような「デジタルとアナログ」「ICTと自然」を相対するものとして考えていることそのものが、すでにデジタルイミグラントの証のような気がする。

 デジタルネイティブには、はなからそのような発想がない。アナログであるかデジタルであるかといったことはどうでもよく、ICTと自然は相対するものなどとは考えたこともないだろう。ICTによって自然を守るといった事例は山ほどある。
 彼らにとっては、すでにICTが手足のように使われているのだ。われわれが手足を意識して使っていないのと同様で、彼らはICTを使って「何か」を創ろうとしているのである。

 一方、ICTを使った経験がないデジタルイミグラントには、その「何か」の発想が出てこない。使うことが目的となってしまうからである。

 人は自分に経験のないことを教えようとは思わない。

 たとえば、国語科の授業の中で、映像を編集してニュース番組を制作するような単元がある。
 実際に映像編集の経験のない教師は、設備が整っていないことを理由にその単元をとばしてしまうこともあるだろう。たとえ指導できたとしても、「映像の編集」そのこと自体が目的となってしまうこともあるだろう。そうなると、極めて重要な「ニュース番組の内容」の部分が希薄になってしまう。子どもの学びも希薄になってしまうだろう。
 一方、ワープロ感覚で映像編集も行える教師にとっては、「番組の質」をどう高めるかということを考える。彼らにとっては、映像編集そのものは極めて簡単な作業なので、むしろ「映像の内容」の方に興味・関心がいくからである。(つづく)

2009年1月16日 (金)

ICTは授業の「補助的な手段」なのか 2

 NHKスペシャル「デジタルネイティブ」は、昨年の11月10日に放送された。期待していた以上に面白い内容だった。
 自らの手足のようにネットを自在に使い、新たな事業や組織を次々に創り出していく若者たちの姿を取材した内容であった。今までの価値観や常識にとらわれない新しい発想や行動力で世界を変えていく可能性を秘めた新世代の若者たちである。彼らを、デジタルネイティブ(Digital Native)とよぶ。

 番組の途中でデジタルネイティブに共通する特質を列挙している場面があった。
 ○現実とネット 区別しない
 ○情報は〝無料〟と考える
 ○年齢・肩書き・所属 重視しない

 デジタルネイティブに対して、それ以前の世代はデジタルイミグラント( Digital immigrant)とよばれる。私もまたデジタルイミグラント(移民)である。

 面白いことに、デジタルネイティブを制作したディレクターが本を執筆している。番組を見た後に、この本を読むと実に興味深く感じる。撮影・放映された映像の背景を知ることができるからだ。また、テレビと書籍とネットがそれぞれの特性を活かしながら、情報を提供していることが実感できる。

 三村忠史・倉又俊夫 著「デジタルネイティブ 次代を変える若者たちの肖像」(NHK出版)

 「ICTは授業の補助的な手段なので、まずは授業力を高めてからICTを活用しよう」という考え方の世代では、デジタルネイティブの価値感や発想は、まず理解できないだろう。「ICT=コンピュータの操作」程度にしか考えていないからである。
 
 問題なのは、教師側の多くがデジタルイミグラントであるのに対して、学習者側ではデジタルネイティブが増えていくということである。(つづく)

 

2009年1月15日 (木)

ICTは授業の「補助的な手段」なのか 1

 教育の情報化は、教育界の課題でもある。しかし、現場を見ると必ずしもそれがすすんでいるとは思えない。これもまたポジティブリストの中の一つであることも原因なのだろう。

 私は、現場では「ICTは授業の補助的な手段」だと捉えられていることも原因の一つだと考えている。
 言うまでもなく、ICTはInformation Communication Technology の略である。「技術」にしかすぎない。技術なので、「補助的」に使おうと思えば、「補助的」に使える。教科書の画面をコンピュータや実物投影機で拡大して投影することなどは、まさに授業の補助的な手段だろう。その場合、ICTの効果は、授業そのものの善し悪しに左右されるのは言うまでもない。何と言っても、授業の「補助」として使っているからである。だから、「ICTよりも、まずは授業力だ」と主張されれば、その限りにおいては頷ける。

 「ICTよりも、まずは授業力だ」という言葉は正論に思える。しかし、現実問題として、教師が「私には、授業力が身についている」という実感を得ることはあるのだろうか。

 自分の専門の教科ではある程度自信があるということはあるだろう。あるいは、ある単元や1時間の授業がうまくいったという経験はあるだろう。しかし、特に小学校の場合において、「私には授業力が身についています」と言い切れる教師がどれほどいるのだろう。
 むしろ、「私は図工指導には自信があるけど、理科は自信がないなあ。」「国語の文学教材の指導はやりがいがあるけど、話し合いの教材は苦手だ。」と感じている教師の方が多いと思う。
 つまり、授業力には限りがないのである。

 そう考えると、「ICTよりも、まずは授業力だ」と考えているうちは、ICTの活用などはずっと後回しになってしまう。

 私は、人間は「技術」を獲得することで、考え方や発想さえ変わるのではないか、と考えている。もともとが美術教師なので、そう感じるのかもしれないが、ある表現技術を獲得すると、発想そのものが広がることを感じていたからである。たとえば、画家が絵画表現の技術を獲得することによって、それから発想されていくものは広がっていく。
 そんなことを漠然と思っていたときに見たのがNHKスペシャル「デジタルネイティブ」であった。(つづく)

2009年1月14日 (水)

「授業の準備の時間」を確保する 9

【ポジティブリスト】
 苅谷剛彦さんの本の中で、しばしば登場するのが「ポジティブリスト」という言葉である。「いいと思うもの」をどんどん挙げてリストに付け加えていくという発想だ。「こんなふうに、できたらいいな」ということを次々に書いてリストに加えていくと、理想的な教育ができるというわけである。
 総合的な学習や小学校英語活動のように新しく加わるものもであれば、情報教育、キャリア教育、食育などのように、どこかの時間帯に上手に組み入れていかなければならないものもある。

 何かを加えるためには、準備などのコストがかかる。しかし、そのコストは保障されないので、そのまま教育現場の多忙感が増していくことになる。だから、本当はどこかを削らなくてはならないのだが、その一つ一つの取組は「いいと思うもの」なので、簡単には削られない。

 というわけで、教育現場は「いいと思うもの」がどんどん増えていくことになる。この問題を解決するためにはどうしたらよいのだろう。

2009年1月12日 (月)

「授業の準備の時間」を確保する 8

 1月10日にD-project(デジタル表現研究会)のセミナーが札幌で開催された。私は、CM制作のワークショップの講師として参加させていただいた。
 ワークショップの目的は、CM制作を通して「映像と言語の特性を理解し、授業に活用する」ということである。つまり、CM制作は方法であって目的ではない。
 参加者の皆さんから様々なアイデアをいただき、私自身も大変刺激を受けた。
 素晴らしいことの一つは、その様子をその日のうちに、WEBサイトにまとめて発信してあることである。北海道のD-projectの意欲が伝わってくる。
 講師も含めて参加者全員が、それぞれに学びあえるところが自主的な研究会の良さだと思う。これは、学校外での「教師の協同」である。

 さて、地域のことを考えてみると、最近はどの教科教育研究会も若い教師の参加者が少ないという。私が参加している図工・美術教育研究会も同様である。運営をしているのは、すでに40代の教師が中心となっている。教科によっては、実質的な活動が停止してしまっているところもある。
 私自身、20代のときに、土曜日の午後からの教科教育研究会のサークル活動などに参加して、様々なことを先輩教師から吸収していった経験がある。そのような自主的な教師の研修の場が現在少なくなってきている。

「授業の準備の時間」を確保する 7

 石井竜生著「先生の集団逃亡が始まった」(清流出版)という本がある。日本の教師をかなり辛辣に批判した本だ。
 あれこれと対応策が練られているにも関わらず、教育の荒廃が止まらないことを指摘しながら、石井氏は次のように述べる。
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 「その最大の原因は、どのような教育改革論も、教師の力の買いかぶりの上にたって、現場に丸投げされているからだと思う。ゆとり教育、総合学習、英語教育などは、現場で指導する先生たちの実力に創意工夫がくわわって、はじめて成り立つ目標だ。
 ところが、現実はというと、先生たちは〝勉強が嫌い〟なのである。したがって、マニュアルが不備で、自分で創意工夫するしかない授業など、注文すること自体が無理なのだ。
 『先生の実力って、かなり低いですよ』」
            石井竜生著「先生の集団逃亡が始まった」(清流出版)
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 石井氏は、学校の警備員をやりながら体験したトンデモナイ事例を挙げている。読んでいて悲しくなるが、頷ける部分もないことはない。

 考えてみれば、教師は大学を卒業したらすぐに「先生」と呼ばれ、一人前の職業人として扱われる。教科書の指導書と教育雑誌・教育書を読むことだけが「授業の準備」だと考えていれば、教師の知的レベルは大学卒業と同程度か、それ以下になるだろう。

 私が中学生時代に、尊敬していた社会科の先生がいた。田中裕一先生という。中学1年の歴史の授業の第1時間目に、自分で復元させたという古代中国の磁器を見せてくれた。かけらを一つ一つ接着剤でつなぎながら、元の状態にしたという。その青白く光る小さな物体は神秘的であり、歴史を身近に感じたことを覚えている。
 田中先生の発言の一つ一つが知的で面白かった。しっかりした知識の上で歴史を語っているのが中学生でも分かった。後で分かったことなのだが、田中先生は社会科の実践研究で有名な教師であった。田中先生に教えてもらったことは、非常に幸運だったと今でも思っている。その先生は他界されたが、和井田清司氏が人文学会雑誌で「未完の教師修業」として田中先生のことについてまとめて下さっている。

 いかに「放課後の時間」が増えても、教師側に知的好奇心や向上心がなければ授業力の向上は望めないだろう。そのことをふまえた上で「授業の準備の時間の確保」を主張したい。

2009年1月11日 (日)

「授業の準備の時間」を確保する 6

 定年を迎えないまま50代で退職をする教師が増えているという。たしかに、私の周囲にも少なくない。
 考えてみれば、明日の授業の準備に追いまくられ、生徒指導と保護者対応に時間を奪われていれば、「人間としての自分」を高める時間的余裕はないだろう。それに加えて、教える内容が増えていくとなれば、もう追いつかないと感じるのも理解できるように感じる。目前の授業をこなす方法だけは身についていても、人間としての知性や教養も乏しくなっている自分に気づいて愕然となってしまうのではないだろうか。そう考えてみると、50代になって自分のこれからの人生を考え、教壇を降り自分の内実を充実させていこうとする姿勢は、むしろ前向きに「自分の人生」を考えている証しとも言えよう。

 しかし、教育界全体から見れば、50代のベテラン教師が退職していくことは、大きな損失であると感じる。なぜならば、日本の教師の成長は教師同士の協同性に支えられているからである。
 私が教師になった20数年前は、先輩の教師から様々なことを教えてもらった。チョークの使い方を当時の教務主任から教えてもらったことを昨日のことのように覚えている。(授業の重要な要素である『板書』の方法について、教員養成系の大学はどれだけ指導できるだろうか?)
 そのためには、昼休みや夕方の「ちょっとした時間」が私には重要だった。分からないことや悩んだことは、その時間帯に先輩教師に尋ねにいったからだ。「帰りの会」の方法で悩んだとき、50代の先輩女性教師に「先生の学級の帰りの会を見せて下さい」と頼んだら、快く引き受けてくれた。こうしたことも鮮明に覚えている。

 もし、こうした「協同して学ぶ時間」も少なくなってくれば、日本の教師の授業力はどうなるのだろう。10年に1度の「教員免許更新制度」によって教員の資質は向上するのだろうか。我々の仲間たちはどう考えているのだろう。

2009年1月 7日 (水)

「授業の準備の時間」を確保する 5

 私は「授業の準備の時間が不足する」という不平不満を述べようとしているのではない。そのようなことをしても意味がないからだ。
 ここでは三つのことを考えたい。
 一つ目は、授業の準備のために教師は何をするべきかということ。
 二つ目は、それぞれの教育政策は、そもそもどんな意味があるのかということ。
 三つ目は、具体的に何をするべきかということ。

 二つ目を考えるときに参考になるのが教育社会学関連の書籍である。私自身は書評を書くのは苦手であるが、いくつかの書籍を掲載させていただく。

○苅谷剛彦著「教育再生の迷走」(筑摩書房)
 教育再生会議から教育問題・学力調査などの問題点を指摘している本として興味深かった。特に最終章の「迷走する教育改革」は必読だと思う。

○藤田英典著「義務教育を問いなおす」(ちくま新書)
 ここ数年の教育改革プランの矛盾点を指摘しながら、義務教育のあり方を提言している。「学力低下論」についての著者の解釈には、共感するところが多かった。

苅谷剛彦+益田ユリヤ著「欲ばり過ぎるニッポンの教育」(講談社現代新書)
 フィンランドの教育との比較がなされているが、面白いのは日本の教育制度の良さも指摘しているところだ。

(つづく)

2009年1月 6日 (火)

「授業の準備の時間」を確保する 4

 私があえて「授業の『準備』の時間」と書いたのは、「授業には準備が必要である」という当然のことを主張したいためである。一般的に「研修」とよばれる時間は、教材研究に直接役立つためのものである。これはこれで絶対必要なのであるが、授業には「直接役立たないこと」も必要なのだと思う。

 授業は、教師と子どもたちでつくる創造的な営みだ。ある決められた「方法」があって、それを上手にこなせばよいというものではない気がする。もちろん、そういう場面もあるが、それではあまりにも面白くない。
 教師には創造性が必要なのだと思う。授業の中身を一生懸命に考えている時間が私にとっては至福の時間である。そのためには、専門性も高めながらも、人間としての総合力のようなものも必要だと感じる。

 昨年12月の教育委員会の学校訪問があった。私は図工の授業を指導主事の先生に見てもらった。授業の導入の5分間で名画を見せることにした。そこで、どの画家の名画を見せるべきか、かなり迷った。指導案そのものは1ヶ月前にはできていたのであるが、授業前日まで悩みぬいた。子どもたちが描くのは想像画である。この導入の時間は、子どもたちが「ぼくたちも画家も同じなんだ」と実感できるような時間にしたかった。
 候補にあげた画家は、ミロとクレーとマチス。結局、前日にクレーに決定した。結果としては成功だった。子どもたちはクレーの絵に興味を示して、多くの感想を述べることができた。指導主事の先生からは「よくぞクレーを選びました。」とお褒めの言葉をいただいたので、苦労が報われた気がした。
 たった5分間の導入のために一ヶ月も悩んだことになる。
 だが、振り返ってみれば、授業を構想する段階において様々な絵画を見るという経験が教師側になければ、「名画を見せる」という発想もなかったはずである。資料になったのは、1990年に定期的に購入していた週間グレートアーティストという雑誌であった。今から18年も前のものだ。ゴッホやピカソといった一般の人にも知られている画家以外にも様々な画家の作品を紹介しているものである。当時は、ぱらぱらと眺めていただけなのであるが、18年後、結果として授業の発想に役立っている。

 教師が、直前にせまる授業のために「誰かがすでに考案したうまい方法」を習得することだけに没頭するようになれば、専門性は高まるのかもしれないが、なんとも薄っぺらい人間になってしまうような気がしてならない。自分の創造性を活かしながら一生懸命に様々なことに興味をもって吸収していく姿勢が、結果として子どもたちに良い影響を与えていくのではないだろうか。(つづく)
 

2009年1月 5日 (月)

「授業の準備の時間」を確保する 3

 「授業の準備の時間」といってもやることは色々ある。私は、大きく三つに分けている。
 まず一つ目は、直接授業に必要な準備である。たとえば、発問・指示を考えたり、ワークシートを作成したりすることだ。教師にとっては絶対必要な「教材研究の時間」である。
 二つ目は、授業を振り返ることである。たとえば、授業の記録をとったり、反省点をメモしたりすることである。「省察の時間」とでも言えるだろう。これがないと、授業はやりっぱなしで終わる。
 三つ目は、授業には直接は役立たないが、授業を構想するための土台となるような知識を得るようなことだ。旅行したり人に会ったり本を読んだりすることも含まれる。良質の音楽や絵画に触れることもそうだ。「教養の時間」とでも言えばいいだろうか。

 「授業の準備の時間」が減れば、この三つのうちのどれかが減ることになる。「教材研究」の時間は実質的に減らせないので、「省察の時間」と「教養の時間」を減らすことになる。これは、大きい。省察や教養は極めて重要だからである。これがないと、授業の準備は、方法論のみに終始してしまうことになりかねない。「明日の授業を何とかこなす方法」だけが身についてしまって、そもそも「その方法は妥当なのか」ということが検討されていかない。間違った方法であることに気づかずに、授業をすすめる危険性が高いのである。

 教師は給料や肩書きを得るために動いているのではない。授業という「仕事」に対する充実感を得るために動く。授業を充実させるためには身銭を切って学ぶ。
 だから、授業を充実させるために必要な時間は「資源」なのである。この意識が働かないと、日本の教師は多忙化の渦の中で授業に必要な力を失っていくことになるだろう。

2009年1月 4日 (日)

「授業の準備の時間」を確保する 2

 以前、アメリカの小学校とオーストラリアの小学校を視察したことがある。日本の小学校と大きく異なったのは、給食と掃除である。アメリカもオーストラリアもそれぞれの子どもたちが自分たちで昼食をとっていた。学校内にあるカフェテリアで食べる子どももいれば、弁当をもってくる子どももいた。教師はスタッフルームでそれぞれに昼食をとる。
 掃除はない。掃除を行う業者が担当する。

 したがって、お昼休みが終わったら、すぐに午後の授業が始まる。午後3時には全ての授業が終わって、スクールバスで子どもたちは一斉に下校する。(もっとも、アメリカは地域や学校ごとに事情は異なる。)
 午後3時以降が「授業の準備の時間」となる。

 日本の場合は、給食指導、掃除指導が加わる。部活動を担当している教師はそれに部活指導も加わる。しばしば、授業時数の国際比較のグラフを見かけるが、これには「給食指導」も「掃除指導」もカウントされていない。

 私は、「給食指導」や「掃除指導」が必要ではないと言っているのではない。時間をコストとして考えないと、授業は充実しないということだ。(つづく)

「授業の準備の時間」を確保する 1

 新しい学習指導要領では、現在よりも授業時数が増える。単純に計算しても、低学年で週2コマ程度、中高学年で週1コマ程度の授業時間が増える。
 「授業時間」が増えるということは、その増えた分の「授業の準備の時間」も増やさなければならないはずである。ところが、全体の時間は変わらないので、「授業の時間」が増えた分だけ「授業の準備の時間」は減ることになる。これは矛盾している。

 授業のためには準備の時間が必要だ。おそらくほとんどの教師は勤務時間以外にやっているはずである。自宅に持ち帰るのは当たり前で、場合によっては休日もその時間にあてていることが多いだろう。
 私がブログで授業についての「振り返り」を記録しているのは次の授業を充実させるためである。これもまた「授業の準備の時間」であり、それなりに時間がかかる。

 授業の準備が十分にできていないと、授業は不十分なものになる。子どもたちにとっては満足感の足りない授業となり、教師にとっても充実感が乏しいものとなってストレスはたまる。
 授業数をいかに増やしたところで、一つ一つの授業が充実していなければ、教育効果は極めて薄いものになる。総合的な学習などは形骸化してしまうだろう。

 現在、私は自宅から学校までの往復通勤時間が2時間近くかかってしまう。だから、10分でも20分でも貴重である。個々の教師の努力だけではどうにも解決できない問題ではないだろうか。どうして日課表の中に「授業の準備の時間」というものを位置づけないのであろう。

 新学習指導要領が完全実施されたときに、何らかの手をうたなければ、学校はますます多忙を極めることになるはずだ。「時間確保」を研究テーマにする学校や教師は存在しないのだろうか。(つづく)

2009年1月 2日 (金)

総合的な学習を練り直す 5

 学校で作成する「総合的な学習の年間指導計画」を見ても、私にはいつ何をどうすればよいのかが分からなかった。また、この学習を通して、どのような学習技能を育てようとするのかも分からなかった。総合的な学習に関しては、極めて具体的に「教師がやるべきこと」を残しておかなければ、次年度には活かせないのではないだろうか。

 たとえば、「子どもの学習活動」以外の欄に「教師の準備」という欄をもうけておいた方がよい。その中で、教師が何月にどこに行ってどのような打ち合わせを行うのかということも記載しておくべきである。また、ワークシートや写真等もデータとして残しておくべきである。特にワークシートがコンピュータのファイルで残されていれば改良もできる。

 そう考えると、総合的な学習の反省を年度末に残す際の形式が今までとは異なったものになるはずである。他の学校の教師はどうやっているのだろう。

総合的な学習を練り直す 4

 12月の日曜授業参観でプレゼンテーションを行った。子どもたちは3人で1グループとなって調べてきた野菜の発表を行う。

 今回は、子どもたちがサンプルの原稿を見ながら、一人一人が原稿を書き、最後に3人でそれを組あせて1枚の原稿用紙にまとめるという進め方で行った。
 プレゼンの画面は子どもたちの原稿を見ながら教師の方で作成した。「ほしい写真」などの画面を用紙の上の部分に記入できるようになっている。(添付ファイル参照)
 この方法であると、たしかに短時間ですむが、画面を意識した発表にはなりにくい。

 そこで代案としては、プレゼンに使えそうな写真をあらかじめ一覧印刷にしておいて、その写真から子どもたちが選ぶようなものにしておけばよいだろう。そう考えると、各学習の場面での写真による記録はけっこう重要である。4年生になったら、子どもたちが自分たちの手で撮影し一覧印刷できるようになっていれば、かなり効率的な進め方ができるだろう。Happyougenkou_2
「yasaishirabehappyou.pdf」をダウンロード

2009年1月 1日 (木)

謹賀新年

 明けましておめでとうございます。
 昨年度は、ひさしぶりに3年生の学級担任になり、とまどいながらも楽しくすごすことができました。子どもたちといっしょにすごすのは、やはり面白いなと感じているところです。

 しかし、昨年度はインプットができなかったな、と反省することしきりです。今年は、もっと勉強して、充実した1年にしていきたいと考えております。色々と具体的な作戦は立てておりますが、公開するようなものでもありませんので、ぼちぼちやってまいります。

 どうぞ、今年もよろしくお願いします。Nengajou2009

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