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2011年5月 4日 (水)

研究主任だったら何をするか 8

【成果を具体的にイメージする3】

 2010年の11月から12月のブログで「研究について思うこと」として書いた文章がある。長くなるが、ここでまとめて取り上げてみることにする。
 大切なことは、「研究紀要」とはうまくいった研究授業の様子を「記述」するものではないということだ。「結果」と「原因」を論理的につなぐための「説明」がなされないと研究とは言えず、一般の教師にも役立たない。そのためには、うまくいかなかった事実も記録しないとならないし、研究する側の論理的な思考力も鍛えなければならない。
 そう考えると、いかに「説明」をしていくかといったことも、研究の「成果」の範疇に入れておく必要がある。

2010年11月24日 (水)
研究について思うこと 1
 そもそも「研究」とは何だろう。
 大辞林には次のように書いてある。
 「物事について深く考えたり調べたりして
  真理を明らかにすること」
 日本語大辞典(講談社)には次のように書いてある。
 「広く調べ、深く考えること」
 いずれにしても、「調べる」「考える」という言葉が出ている。
 学校における「研究」は、この「調べる」「考える」があるのだろうか。
 学校の研究紀要を見てみると、ほとんどが以下のような構成になっている。
******************************************


1、研究テーマ
 以下のような遠大な言葉が含まれているものが多い。
 「学びを育む」「豊かな学び」
2、研究の仮説
 たとえば、こういうものが多い。
 「興味関心を高める指導過程の工夫を行えば、子どもたちの自ら学ぶ力が育つだろう。」
 当然といえば、当然すぎる文脈だ。重要なのは「工夫」の内容だ。
3、授業の実際
 実践報告というか授業事例がいくつか掲載される。
 単元名があって、指導過程が記述されている。
4、成果と課題
 研究の前後の子どもたちの実態が数値で示されていることもあれば、文章で「以前よりも、積極的に考える姿が見られるようになった。」と記されていることもある。
******************************************
 このようなの流れの中で、教師が「調べる」「考える」ということを行っているだろうか。ひょっとしたら、考えているのは研究主任だけで、あとの教師は年に一度の研究授業を文章化しているだけではないだろうか。
 だとすれば、学校の研究は「研究」ではなくて、「実践」を報告しているだけではないだろうか。(つづく)

2010年11月25日 (木)
研究について思うこと 2
 研究とは「深く考える」「広く調べる」ということだ。
 ところが、学校における研究では、
「研究テーマに沿って、何かの実践を行う」
 と捉えられていることが多い。
 だから、教師にとって、研究主任が立てた仮説に合わせた「研究授業」を行うことが研究のメインになってしまいがちだ。
 たとえば、「対話」が仮説の中心となれば、自分の研究授業にどうやって「対話」の場面を入れようかと考えてしまう。
 本来、「そもそも対話とは何か」「なぜ対話が必要か」「本当に対話が必要なのか」といったことを深く考えるべきではないか。そんなことを考えたり、対話に関する文献を調べたりしていくうちに、対話の本質が見えてくるはずだ。(つづく)

2010年11月30日 (火)
研究について思うこと 3
 一般的な「教育研究」の基本形式は次のようになることが多い。
1 今までの学問的成果の検討を行う。
2 新しい仮説を立てる。
3 実践を行う。
4 その裏付けによって仮説を検証する。
 学校でこれを行う場合、124は研究主任が一人で行うことが多い。
 そうすると、他の職員は3だけを行うことになる。
 ここで問題なのは、「仮説に沿って実践を行う」ということだけに意識が向かいがちになってしまうことだ。つまり、「研究主任が考えた仮説に従って、何かしらの研究授業を行う」という部分にだけエネルギーが注がれてしまい、124には関係しないという事態が起こってしまう。極論すれば、研究とは「仮説に沿って実践を行うこと」という意識が定着してしまうのである。
 一方、研究主任が担っている1、2、4に関しても、十分にやられているかといえばそうでもない。「今までの学問的成果の検討」を行ったり、「新しい仮説」を立てたり、「実践の裏付けによって仮説を検証」したりしているだろうか。
 少なくとも、「新しい仮説」というものを、私はあまり見たことがない。たいていは、「指導過程の工夫を行えば、子どもたちの自ら学ぶ力が育つだろう」といった抽象的なものに終始している。(つづく)

2010年12月 1日 (水)
研究について思うこと 4
 そもそも「仮説」という言葉が分かるようで分からない。
 簡単に言えば、「○○すれば□□になる。」という「原因」と「結果」をむすびつけて、その関係性を述べること。これが「仮説」だと言えよう。
 そう考えると、われわれは日常的に「仮説」を立てて行動している。
 たとえば、「西の山が雲で隠れているので、今日は雨が降る。」と考え、「傘をもっていく」というようなことはけっこう多い。
 一方、教育研究の仮説は、やたらと大きいものが多い。「興味関心を高める指導過程の工夫を行えば、子どもたちの自ら学ぶ力が育つだろう。」などは、その顕著な例であろう。その「結果」になるような「工夫」を行うわけなので、当然と言えば当然の文脈となる。「ごはんをたくさん食べれば、おなか一杯になるだろう。」と言っているようなものである。
 だから、「仮説の検証」の段階になれば、そのほとんどが「検証された」ということになり、子どもたちは見事に「自ら学ぶ力が育った」ということになる。
 教育研究のような社会科学においては、授業一つとってみても、教師の指導技術・子どもの人間関係・学級経営・教室環境などの様々な要因があって、簡単に「検証」はできないはずだ。
 そう考えると、教育研究においても、対象を焦点化し具体的な仮説にしなければ、「研究」にはならないのではないだろうか。(つづく)

2010年12月 2日 (木)
研究について思うこと 5
 ある学級で「うまくいった方法」が、別の学級でもうまくいくとは限らない。教育研究の場合、自然科学の研究のように完全に数値化できない場合が多いからである。
 だから、研究の内容を文章で語ることがどうしても必要になってくる。ここで問題になることは、何をどう語るかということだ。
 そこで、次の言葉がキーワードになる。
 「記述」と「説明」
 高根正昭氏は著書「創造の方法学」(講談社現代新書)で次のように述べている。
********************************************
 記述とは
「事実を正確に観察して記録すること」
 説明とは
「『結果』として扱われる現象と、その『原因』となる現象とを、論理的に関係させること」
********************************************
 そう考えると、多くの教育研究の文章が「記述」で終わっているものが多いことに気づく。
 以前、「ICTの活用で、子どもたちの思考力・表現力を伸ばす」というテーマで研究をしていたことがある。具体的な実践として「身の回りで問題になるようなものをデジタルカメラで撮影して、それをもとにしてスピーチやスライドショーなどで表現する」という学習を行った。たとえば、「段差のある公衆トイレ」や「手すりのない階段」といったものである。
 この学習において、子どもたちは積極的に活動を行った。スピーチもスライドショーもスムーズに行うことができた。授業後の評価も数値的に極めて高いものとなった。
 しかし、これをそのまま書いてしまっては「記述」の段階でとどまってしまう。なぜ、うまくいったのかということを「説明」しなくてはならないのである。
 ある同僚は、「デジタルカメラを操作するのが楽しかったからだ」と述べていたが、私は納得いかなかった。それでは、「スピーチやスライドショーがスムーズに行えた理由」にはならないからである。また、子どもたちはデジタルカメラの操作にはすぐに慣れてしまう。操作に興味をもつのは初期の段階だ。
 そんなときに、ある大学教授が私の実践を見て「撮影することで、ある視点で現実を切り取ることができるからだ」と「説明」してくださった。つまり、子どもたちは撮影の段階で、どの場面を切り取るのかということで思考しているので、映像に自分の言葉をつけることがスムーズにできたのである。
 このような「説明」があると、「結果」と「原因」がつながる。(つづく)

2010年12月 3日 (金)
研究について思うこと 6
 「記述」と「説明」を区別して考えることは重要なことだ。
 学校の研究紀要をあらためて読んでみると、圧倒的に「記述」が多い。たとえば、一学期当初の児童の実態調査が「記述」され、授業を含む様々な実践が「記述」がされ、最後に二学期末の児童の実態調査が「記述」されるといった流れである。児童が変容した様子は数値的には分かる。教師の「指導の工夫」によって、児童が学習に興味・関心をもったり、学力が高まったりしたという「結果」が、グラフや表によって示されるからである。
 しかし、「なぜ」そのようになったのかという「説明」がなされていない。「指導の工夫」がどのような理由によって興味・関心を高めたのが論理的に述べられていない。だから、教師が行った様々な実践しか伝わってこない。
 一般的な学校の研究発表がこのような流れになっているので、教師側も「教育研究とは、うまくいった実践を発表することだ」と思いこんでしまっているのではないだろうか。もっとも、実践を行うことが教師の役割なので当然と言えば当然なのだが、その実践のプロセスでは、小さな仮説と検証を繰り返したはずだ。「こうやってみたが、うまくいかなった。だから、こうしてみた」といった具体的な試行錯誤があったはずである。そのことを記録しておくことが「説明」につながると思う。

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コメント

こんばんは、先生。

連休が終わりますね。

このシリーズを読んでいると

なんだか懐かしくて、先生の研究を追っていた頃が・・・

時間は経ちましたが、先生の研究へのオモイは

形を変えて、発信されていることを改めて感じます。

5月、私も頑張っていきます!

 edelさん、いつもコメントありがとうございます。
 うれしくて胸にぐっときます。(^_^)
 実は、このシリーズは、ある研究指定校の研究主任の先生に向けて書いています。はじめて研究主任をされる方なのです。
 だから、「もし、自分が研究主任だったら・・・」という想定で書いています。ご本人が読んで下さっていればいいのですけどね。
 なんだか、自分も一緒に研究しているような気分です。
 がんばりますね。(^o^)

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