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2011年9月

2011年9月30日 (金)

学校の研究はなぜ実践報告になってしまうのか 8

【証拠を残す力】

 何らかの実践を行ってみて、それが効果があったのかどうかを主張する場合、何もデータがなければ調べようがない。だから、「子どもたちの興味関心は高かった」とか「活発な議論ができるようになった」といった甚だ主観的な表現で効果を語らざるを得なくなってしまう。
 そこで必要なことは「証拠を残す力」である。
Shoukowonokosuchikara
 実践の足跡を何らかの形で残すことであり、できればそれが授業の中に組み込んであることがのぞましい。たとえば、単元の終了時に「学習のまとめ」を書かせて、その横の枠に「今回の学習は楽しかったですか」「メンバーと話し合いながら報告書を書くことができましたか」といったアンケートをとるようなワークシートを作っておくようなことだ。
Tangensyuuryoujinoishiki
 それを集計すれば、少なくとも単元間で子どもたちの満足度を比較することができるようになる。このように、可能な限り簡単に意識調査ができるような仕組みを作っておけば年間を通して調査することができる。

そうすると、
「子どもたちの興味関心は高かった」
といった主観的な表現ではなく
「24名中24名の学習者が『今回の学習は楽しかった』と回答している」
といった客観的な表現にすることが可能となる。(つづく)

2011年9月29日 (木)

学校の研究はなぜ実践報告になってしまうのか 7

【本質を知る力】

 以上、「それって何」「根っこ読書術」「ネット論文検索」といった話題を投げかけた。「分かっているようで実は分かっていない事柄」を自分なりに調べて考え明確にしていくことを「本質を知る力」という言葉でまとめてみることにする。樹木にたとえて言えば、地上で露出している枝葉だけではなく、地下にあって通常は見えない根の部分を知るような力である。
Honshitsuwo
 数年前からPISA調査が教育界で話題になっており、PISA型読解力を研究テーマにしている学校も増えている。実践を見ると図表やグラフ等に含まれている情報について対話によって考えているような授業が多い。しかし、ここで次のような疑問がわき上がってくる。
 「PISAって何の略なの?」
 「OECDって何なの?どんな組織なの?」
 「そのOECDがなんで学力テストやってるの?」
 「テストにはどんなものがあって、誰がつくってどうやって採点するの?」
 「どれだけの数の国が参加しているの?」
 こんな疑問は調べれば数分で答えが出てくるようなものだ。
 このようなPISAの本質にかかわる部分を知らずに、図表・グラフによる対話の指導研究だけをやっていては、PISA型読解力の研究をしているとは言えないだろう。

 学校の研究が、とにかく実践重視型になるのは強みではあるが弱みでもある。一つ一つの言葉に敏感になって、問題のベースになる部分を明らかにするべきだ。(つづく)

2011年9月28日 (水)

学校の研究はなぜ実践報告になってしまうのか 6

【ネット論文検索】

 読書によって「言葉」を明確にしていくこととは別に、「今までどのような研究がなされてきたのか」を調べることも必要だ。もうすでに研究されていることを再び行うことは無駄な労力を費やすことになるからだ。
 学校の研究では、この「先行研究」があまりなされていない。これは、先行研究が蓄積されにくいのが原因なのかもしれない。研究の成果の多くが「研究紀要」という形になっており、研究発表会の参加者のみに配布される場合が多いからだろう。しかし、地域の教育センターなどでは「教育論文」をデジタル化して公開している場合もあるので、これは役立つ。
 大学の研究者が書いた論文では、先行研究の論文が必ず掲載されている。現在は多くの論文がデジタル化されデータベース化されているから検索が可能である。

 国立情報学研究所(NII、Natitonal Insitute of informatics)が運営するCiNii(サイニィ、Cittation Information NII)は便利だ。約280万件の論文本文をPDFとして保存している。

 

CiNiiトップページ

 たとえば、「デジタルコンテンツ」で検索してみると1028件がヒットする。「デジタルコンテンツ 社会科」で検索すると12件がヒットする。「オープンアクセス」と記されたものはその場で論文が読める仕組みだ。

 他にもGoogleが提供しているサービスGoogle scholar(グーグル・スカラー)も論文等の検索ができる。

 

Google scholarトップページ

Netronbunkensaku  
 ネットで論文を検索してみると、過去の様々な研究が分かる。また、研究の方法も様々にあることも分かる。興味をもった研究者がいたら、著者検索してみるとさらに面白い。(つづく)

2011年9月27日 (火)

学校の研究はなぜ実践報告になってしまうのか 5

【根っこ読書術】

 「自分は何も知らない」「何も分かっていない」と考えると、色々と調べたくなってくる。読書はそのための最も効率的な方法だ。
 何となく気になっている言葉が頭にひっかかっていると、それがキーワードになって書店を歩くことになる。たとえば、「図解」という言葉がひっかかると、その言葉に近いものが書名にあるものを探してしまう。図解の方法や図解のパターンが書かれたいわゆるハウトゥものや入門書である。これらを何冊か集めていく。この方法で読書を行うと、とりあえず「図解」の方法に関する知識は増える。樹木にたとえると枝や葉っぱのように見える部分が分かるといった状態だろう。これを「葉っぱ読書術」と名付けてみよう。

 これとは違って、その考え方の元になっているものは何かと考えて探ってみる方法もある。たとえば、齋藤孝著「頭がよくなる図化思考法」(ソフトバンク新書)という本の「はじめに」中に次の言葉がある。
********************************************
 私は、そうした図化思考を、実は高校生の頃から自然にやってきました。ただ、その効果をはっきりと認識したのは、大学で構造主義という思想に出会ってからです。
              齋藤孝著「頭がよくなる図化思考法」(ソフトバンク新書)
********************************************
 齋藤孝氏は「構造主義」については軽く触れているだけなのだが、私は「それって何?」と思ってしまう。そうなると構造主義について無性に知りたくなるので、橋爪大三郎著「はじめての構造主義」(講談社現代新書)という本を買って読んでみる。今度はその本の中に「記号としての言語」の話題が出てくる。提唱したのはジュネーブ大学のソシュールである。こうなってくると、またまた「それって何?」と思ってしまう。今度は俄然ソシュールに興味を抱いてしまうので、町田健著「ソシュールと言語学」(講談社現代新書)という本を買って読んでしまうといった具合である。「コトバはなぜ伝わるのか」といった自分では当初思ってもいなかった考え方も知ることができるようになる。
 この方法では、「図解」の元になっている考え方を掘り下げるような知識が増える。樹木にたとえると、通常は見えない根っこの部分が分かるといった状態だろう。これを「根っこ読書術」と名付けることにする。この方法のコツは、お気に入りの著者が紹介している本をとりあえず読んでみることだろう。私の本棚を見ても、自分の興味とは全く関係のない本が並んでいたりする。
Nekkodokushojutsu_2
 あらゆることを「それって何?」と考えてみると、想定外の知識が増えて実に面白い。(つづく)

2011年9月26日 (月)

学校の研究はなぜ実践報告になってしまうのか 4

【それって何?】

 学校内で研究を行う際に絶対に必要な力が「言葉の意味を知る力」だ。
 先の例で言えば「協同学習」の意味は分かっているようで分かっていない状態だった。職員に共通理解できていないのである。言葉に対して共通の認識をもっていなければ、共同研究は不可能だろう。それぞれがバラバラの言語をしゃべっているようなものだからだ。

 それを防ぐためには、研究主任として提案する場合でも、一職員として提案を受け入れる場合でも、言葉一つ一つに敏感でなくてはならない。
 「協同学習って何?」
 「研究って何?」
 「仮説って何?」
 「自己評価って何?」
 自分は実は分かっていないということを出発点にするべきだ。
 それから当然調べる。日本語辞典、ネット検索も必要だろう。教育用語事典なども活用できる。便利なのは教育工学事典だ。関連する様々な情報が一度に得られる。
 言葉の定義は様々だが、研究テーマの文脈から最も適するものを選択していけばよいだろう。後は関連する書籍を検索して読む必要がある。たとえば、amazonで「協同学習」で検索すれば208件の書籍がリストアップされる。

 このように、学校の研究に登場する「言葉一つ一つ」に対して、赤ん坊になったつもりで「それって何?」と自分に質問してみることが重要だ。
Sorettenani
自分でうまく答えられなければ「実は分かっていない」ということだからだ。(つづく)

2011年9月25日 (日)

学校の研究はなぜ実践報告になってしまうのか 3

 職員側が「年に一回の研究授業だけに全力投球」では、年間を通した研究にはならない。
 一人一人の教師が「学校での研究とはそのようなものだ」と捉えているうちは改善はできない。
 そこで,そもそも研究とは何かということを考えてみたい。
 辞書的な意味は以下のようになる。

 研究:深く考えたり、調べたりして、真理を明らかにすること

 目的があるから、深く考えたり調べたりして真理を明らかにする必要がある。その目的とは「問題」に他ならない。学校の児童・生徒に何らかの「問題」があるから研究をするはずである。「生き生きと学び合っていない子ども」が現在の状態(=問題)だから「生き生きと学び合う子どもの育成」が研究テーマになるはずだ。現在も「生き生きと学び合っている子ども」の状態であれば、研究テーマにする必要がない。
 その「問題」を解決するために、深く考えたり、調べたりして、真理を明らかにする。これが「研究」なのである。

 その問題を解決するためには、その方略を考えなくてはならない。そのために、書籍や論文等を読んで先行研究を調べなくてはならない。
 たとえば、「生き生きと学び合う」ための問題解決の方略として以下の3点を考えたとしよう。
(1)協同学習の場の設定(があればいいのではないか。)
(2)学び合う必然性のある課題の設定(があればいいのではないか。)
(3)自らの学びを振り返る自己評価の場の設定(があればいいのではないか。)

 極めて大まかな方略ではあるが、これが研究の仮説となる。したがって、学校で取り組む研究授業は、この「仮説」に沿った形で授業を行わなければ検証ができない。(このあたりが、焦点化された大学の研究と学校の研究との違いかもしれない。授業には多くの教師が携わるし、児童生徒も同一ではないからだろう。)

 ところが、実際に研究授業直前になって問題が起こることが少なくない。
 一番多いのが、仮説の意味が職員に十分に共有されていないということだ。
 上記の例でいえば、「協同学習」の意味が共有されていないといったことだ。
 研究主任が述べている「協同学習」が、職員には「グループでの話し合い活動」という意味で伝わっているような場面である。
 年度当初の研究主任からの「提案」では、職員からの質問も反対意見も出なかったのに、研究授業の直前の指導案検討の段階で問題がわき上がってくる。

 これは、われわれが「言葉一つ一つ」に鈍感であるからだ。(つづく)

2011年9月24日 (土)

学校の研究はなぜ実践報告になってしまうのか 2

 研究主任の意識としては、研究仮説を設定し、それぞれの学年で取り組んでもらい、年間を通してそれを検証するために研究授業を行うという計画を立てるはずだ。
Kenkyushunin_2
 そして、最後に研究のまとめを行い、成果と課題を明らかにするという流れである。
 しかし、うまくまとまらない場合が多いのではないか。一回一回の研究授業を通して、研究テーマに対して何が課題であり、次回の研究授業でクリアすべきことを明らかにしない限りは、単なる「授業の善し悪しを話し合う会」になってしまう。
 そうなってくると、一職員の立場としては、「研究の仮説」はあまり意識にはなく、自分が受け持っている研究授業をとにかく上手にやりこなすことにエネルギーを注いでしまうことになる。年間を通して研究をするというよりは、年に一回の研究授業に全力投入ということになってしまう。
Shokuin_2
 当然、「研究の成果と課題」にも意識が向くはずもなく、あとは「研究主任におまかせ」状態になるのではないか。

 結果的には、学校全体の取組であるはずの研究が児童の変容にはつながってこない。年に一回の研究授業だけで児童が変容するはずがないからである。
 これが、通常の「学校の研究」の流れとなるならば、成果と課題は見えにくくなり、年間に行った数回の研究授業を「授業実践」として報告するしかなくなってしまう。(つづく)

2011年9月23日 (金)

学校の研究はなぜ実践報告になってしまうのか 1

 学校の研究紀要や教育論文は次のような流れで書かれていることが多い。

 1、研究テーマ+テーマ設定の理由
 2、研究の仮説
 3、研究の構想図
 4、授業実践
 (1)授業実践1
 (2)授業実践2
 (3)授業実践3
    ・・・・
 5、成果と課題

 学校文化にどっぷりと浸かっていると、これに何も問題を感じない。

 ちなみに、学会などの論文は次のような流れで書かれていることが多い。もっとも、言葉が異なっていることはあるが、大まかには以下のような流れだろう。
 1、研究テーマ
 2、研究のあらまし
 3、問題の所在+先行研究(はじめに)
 4、目的
 5、方法
 6、結果
 7、考察
 8、まとめと課題

 学校の研究は、職員全体で取り組むために、テーマも大きなものが多い。
 「生き生きと学び合う子どもの育成をめざして」
 「自ら考え、主体的に判断して、行動できる児童の育成」
 「豊かな心をもち、主体的に生きる生徒の育成」
 あまりにも大きいので、サブテーマをその下に置くことが多い。たとえば以下のようなものである。
 「〜対話を核とした国語科授業の創造〜」
 「〜基礎・基本の定着をはかる算数科授業をめざして〜」
 「〜伝え合う力の向上をめざして〜」

 問題は、研究仮説に対して授業実践がいくつか並べてあるだけで、仮説の検証になっていない場合が多いということだ。単なる「実践報告集」になっている場合があるのではないだろうか。その授業が本当に効果があったのか。効果があったとすれば、その原因は何なのか。効果がなかったとすれば、その原因は何なのか。根拠を示して論理を展開するべきではないのだろうか。(つづく)

2011年9月21日 (水)

授業の理論をつくる8

 再重要度評価を行ったら、問題を焦点化する。最も重要度の高い問題から話し合うことになる。
 たとえば、「なぜ、西尾先生の授業のときは、意見がたくさん出たのだろう。」という問題を話し合うことにしよう。そこから、また付箋紙を出して、その回答となるアイデアを出し合う。

「自分の感想を出せばよいので気軽に意見が言いやすいから。」
「映像が一つのテーマだけだったので、分かりやすかったから。」
「映像そのものが楽しい内容だったので、心地よい気分になれたから。」

といったことを自由に話し合う。さらに、その中から「論理的につながりの高いもの」を選んでいくようにする。また、「なぜ、映像の場合、感想が出しやすいのか。」というさらに深い問題を話し合ってもよいだろう。
 このように、話し合いの後半部分は、「問題の解決案」に焦点化するべきなのだろう。つまり、スライド作成前の話し合いの段階では、「問題点を明確にする」「問題の解決案を出し合う」「解決案を決定する」という順番で行うと効率的になるはずだ。
Mac7110910
 では、プレゼンテーションのスライドを作る段階では何が必要なのだろう。今回のプレゼンテーションでは3分間という制約があった。3分だと、内容にもよるが、あまり多くを語ることはできない。全てを言おうとすると、インパクトは弱くなる。誰もが気づいていないような内容にしぼることも重要だ。意外性のある内容にしぼって、シンプルにまとめていくことも考えなくてはならない。今回の渡辺先生、西尾先生の「教育技術」は極めて優れていたものだった。やさしい語り口調や表情などは、子どもたちの発言を促すのに有効に働いていただろう。しかし、それは誰もが気づいていたことだ。そのことを取り上げても、聞いている側にとっては新鮮味に欠ける。聞いている側にとっても、「なるほど、そんな見方があったのか。」と感じられる情報に洗練していくべきだろう。情報を羅列しても、良いプレゼンテーションにはならないのである。

 それにして、このワークショップは極めてハードルが高い。校内の授業研究会で行うことは、まず不可能だ。このメンバーだからできることなのだろう。しかし、トレーニングとして継続していけば、相当大きな力になっていくだろう。まさに、「一人では解決できない高いハードル」のあるワークショップだと思う。

2011年9月20日 (火)

授業の理論をつくる7

 何かの主張をする場合、そこに根拠が伴わないとならない。
 授業の理論をつくる場合、その根拠とは授業の事実に他ならない。
 そのために、今回は教師と児童生徒役の発言記録をしてもらった。これは、通常の授業研究会であれば行うだろう。それと同時に、写真での撮影もしてもらった。これは重要だ。なぜならば発言記録には残らないものがあるからだ。もっとも、ビデオで残す方法もあるし、今までも授業ビデオから分析する手法も考案されてきた。しかし、ビデオ分析はそれを再生するための時間がかかるという問題点もある。
 いずれにしても、映像で授業記録を確かめながら、授業の事実を根拠にしていく作業は欠かせない。実際、参加者はよく写真を見ながら授業を振り返っていた。
Mact110910pc

 では、付箋紙ではどのような手順で話し合えばよかったのだろう。問題解決のオーソドックスなパターンでいけば、まずは「問題となる点のブレーンストーミング」から始めるべきだろう。
 今回のプレゼンテーションのテーマは、「授業を説明する」ことが問題解決となる。
 だから、単純に「なぜ、○○なのだろう。」ということを話し合う。たとえば、「なぜ、西尾先生の授業のときは、意見がたくさん出たのだろう。」「渡辺先生の4つのエピソードはそれぞれどんな意味があったのだろう。」といったことを、思いついたまま出し合うことになる。
 次に行うことは、出された付箋紙をグルーピングして、大きなまとまりにしていく。これによって似たような問題が統合されたり、重要度の高いものや低いものが分かってくる。
 そして、それをさらに「重要度評価」を行う。どの問題が最も重要であるかを決めるのである。
Mactt110910b
 このように、話し合いの前半部分は「問題点の明確化」に焦点化するべきなのだろう。(つづく)

2011年9月17日 (土)

授業の理論をつくる6

 授業を図にしてみると、構造の違いが明確になった。
 渡辺先生の授業では、複数の文章を考える根拠として提示し、「エピソード」を意味づけるために「一番感銘を受けたのはどれか。」という問いを発していたのである。
 西尾先生の授業では、動画映像を考える根拠として提示し、多様な意見を引き出すために「どんなところがおもしろいですか。」という問いを発している。

 図にしてみると、授業の骨格が分かっておもしろい。だから「意見は少なかったがまとまった渡辺先生の授業と、まとまらなかったが意見が多かった西尾先生の授業の違いは何か。」という問題に対しては、「二人の授業の構造がこのように異なっているからである。」と述べて、詳細を具体的に語ればよいのだろう。
Jugyounochigai

 しかし、実際のプレゼンテーションでは余計なことを言い過ぎてまとまりに欠けたものになってしまった。まだまだ私自身も「説明」ができていない。反省しなければならない。(つづく)

2011年9月16日 (金)

授業の理論をつくる5

 授業を語るときに、つい「事実→感想」となってしまいがちだ。
 たとえば、「○○先生は資料を少しずつ提示されました。そこが、非常にすばらしいと思いました。」といった感想である。これでは「資料を少しずつ提示したことが、なぜすばらしかったのか」という説明になっていない。
 また、「○○先生が資料を少しずつ提示することで、子どもたちの集中力が高まりました。」という言い方もある。これでも説明になり得ていない。「資料を少しずつ見せる」という事実と「子どもたちの集中力が高まった」という事実を並列しただけである。資料を少しずつ見せると子どもの集中力がなぜ高まるのかということを論理でむすばなければ理論化できない。

 自分自身は一体、どのようなことを考えていたのだろう。ふりかえって「自らの思考」について内省してみる。
 まず、二人の授業を見ながら、そのときに以下のことを漠然と感じていた。

(1)渡辺先生はなぜ東日本大震災を取り上げたのか。
(2)渡辺先生はなぜ4つのエピソードを取り上げたのか。
(3)なぜ、「一番感銘を受けたのはどれか。」と考えさせたのか。
(4)子どもたちの発言は、他の子どもたちのどのように作用するのか。
(5)なぜ、最後は発言を教師側でまとめたのか。
(6)最後のまとめは、最初の問いかけとどうつながっていたのか。
(7)西尾先生のクレイアニメーションを見て、たくさん意見が出たのはなぜか。
(8)渡辺先生は文章、西尾先生は映像。どちらが意見を出しやすいのか。
(9)西尾先生は、なぜ最後にスピードの善し悪しを問うのか。
(10)最後がまとまらなかったのはなぜか。まとめようとしなかったのか。
(11)意見は少なかったがまとまった渡辺先生の授業と、まとまらなかったが意見が多かった西尾先生の授業の違いは何か。

 私は、あえてどちらのグループにも入らなかった。だから、時間がたつにつれて、二人の授業の違いに意識が向いていくことになった。

 この後は、漠然と抱いていた疑問の中から最も重要だと思われる点だけに絞って考えてみることにした。ここでは(11)ということになる。
 二人の授業の違いは何か、と考えた場合、おそらくは授業の組み立て方に大きな差があると考え、図にしてみることにした。ノートになぐり書き状態である。(つづく)
Nagurigaki

2011年9月15日 (木)

授業の理論をつくる4

 中村先生、飯盛先生、竹之内先生の「県外メンバーグループ」は、渡辺先生の授業を「教え方」「子どもの視点・集中力」「教材提示」の三つの観点で説明を行った。ユニークなのは、子どもから見たメディアの役割である。

 たとえば、「板書するときは、スクリーンは白かったので、子ども達の視点をコントロールできた。」という指摘である。
Bansho_screen
 これは、「子ども達の視点をコントロールできる。」という「結果」に対する「原因」になっている。子どもたちが見るべきメディアがあちこちにあると、視点はコントロールできない。以前、参観した授業で、子どもたちが手元にある地図と電子黒板にある地図を両方見なければならないという場面があった。当然、視点はコントロールできない。教師が電子黒板で説明していても、それを見ている子どももいれば、手元の地図を見ている子どももいるという状態になった。極めて分かりづらい授業になったのは言うまでもない。

 また、「ペーパーを渡していたので、見返すこともでき、自分の祈りなどの感想も書き加えられる可能性が生まれた。」という指摘も面白い。
Paper  
 確かに「4つのエピソードで最も感銘を受けたのはどれか」という発問に対して私自身も集中して考えた。その一つの原因が「ペーパーの配布」ということになる。子どもたちが、選んだり、じっくりと内容を吟味したりする場合、メディアは手元にあった方がよいのだろう。以前、鑑賞の学習の研究を行っていたときに、スクリーンだけで授業を行った場合と、写真資料を配付した場合とでは、子どもたち一人一人が検討にかける時間が異なった。写真資料があった方が集中していたのである。これは紙メディアの役割を考える意味でも重要な指摘だ。

 このような指摘から、「子どもの視点をコントロールするためのメディアの提示手法」という教育技術や「スクリーンと手元資料」というメディアの特性に気づいていくことができる。(つづく)

2011年9月14日 (水)

授業の理論をつくる3

 二人の授業者の授業の概要は以下である。

 渡辺先生の「道徳の授業」は、東日本大震災をテーマにした内容であった。震災後に立ち上がった「Pray for Japan」を取り上げ、書き込まれた4つのエピソードを児童に読ませる。そのエピソードに関わる実際の場面を映像で提示する。その後、「どれが一番感銘を受けたか」という発問に対する答えを児童は述べる。それを板書して、教師がまとめるというものだ。
 西尾先生の「図画工作の授業」は、クレイアニメーションの鑑賞の授業であった。まずクレイアニメーションを見せて「どんなところがおもしろいか」を問う。子どもたちは様々に意見を述べる。その後、「どうしたら、もっとおもしろくなるだろうか」という発問。子どもたちが再度意見を述べ合った後に、スピードの異なる二つの映像を提示して「どちらのスピードがよいか」という問いを出す。子どもたちは意見を述べ合って終了。

 二つの授業ともに、教師の授業方法、教材の提示方法がすばらしく、文句の言い様のない授業であったと言えよう。校内研究であったら、絶賛される授業である。
 しかし、絶賛ばかりしていても理論は生まれない。今回のワークショップが難しいのは、授業の事実を述べるだけではなく、説明をしなくてはならないからである。

 渡辺先生の授業に対しては4つのグループからの「説明」があった。詳細は割愛するが、丸野先生たちのグループは4つのエピソードを4つの道徳的価値に分類していた。「どれが一番感銘を受けたか」という問いは、学習者にその意味を考えさせることになるからだ。
Doutokutekikachi
 この提案は、「エピソードの意味付け」という考え方を示してくれたことが新鮮であった。プレゼンテーションなので、当たり前のことを当たり前に述べてはつまらない。(つづく)

2011年9月13日 (火)

授業の理論をつくる2

 高根正昭氏は著書「創造の方法学」(講談社現代新書)で次のように述べている。
********************************************

(1)われわれは何事かを調査し研究しようとしたときまず問題を設定しなければならない。
(中略)
(2)問題を設定したらその現象を引き起こす「原因」を考えなければならない。
(中略)
(3)問題に対する「原因」が明らかになったら「原因」と「結果」との間に論理的な関係を設定することである。
********************************************

 授業の「説明」ができないのは、「問題」が設定できていないからではないだろうか。二人の授業者の授業方法の良いところを述べるだけだったら、事実への感想にしかすぎない。
 「なぜ、そうなのか」という問題を自分に投げかけるところから出発するべきだ。(つづく)
Fusen

2011年9月12日 (月)

授業の理論をつくる1

 9月10日(土)の熊本大学教育学部情報教育研究会は、いつもながら充実した内容だった。午前中は、レポートとiPadの実技講座。
 午後は、二人の方に模擬授業をやってもらい、参加者は授業記録をとって、その授業の説明を行うというワークショップを行った。簡単そうだが、かなり難易度の高い課題である。

 一般的な校内の研究授業後の研究会では、次のような意見が出される。

 「子どもたちがいきいきと発表してすばらしい授業でした。」

 このような意見は、聞いていても分からない。「なぜ、子どもたちがいきいきと発表できたのか」という「説明」がなされていないからである。「いきいきと発表」できたのは、何かしらの原因があったはずである。その原因を特定せずに、結果だけを述べても授業を批評したことにはならない。

 研究論文の多くが「研究テーマ」「研究の仮説」「授業実践」「成果と課題」という組み立てになっているのだが、その授業がなぜ良いと言えるのか、また、なぜ良くないと言えるのかという「説明」がないので、「授業実践」の多くは、単なる実践記録のレベルにとどまっている。これは、われわれ教師が、授業から理論を作るというトレーニングをやってこなかったからではないだろうか。
 そのような理由で、情報教育研究会の午後は「授業の説明」ワークショップを企画したのである。

 やり方はシンプルである。
 まず、二人の授業者が10分の模擬授業を行う。参加者は2班に分かれて、それぞれが「子ども役」と「記録役」を交代して授業を受け観察する。
Mact110910a
Mact110910b

 その後、各班で「授業の説明」を3分でプレゼンすることになる。

 参加者の話し合いには1時間程度の時間が必要であった。難易度はかなり高かったのだと予想される。

 おそらく、原因と結果のむすびつきを説明するための方法論がいるのだろう。(つづく

2011年9月 9日 (金)

熊本市教育センターのホームページ

熊本市教育センターのホームページが一新されている。

Kumamotoshikyouikucenter_new_2
 特筆すべきは、センターオリジナルデジタル教材の中の「小学校・算数」スーパー教材シリーズだろう。操作の方法は動画で紹介されている。
 また、「先生ちゃんねる」の中の「先輩から学ぶ教育技術シリーズ」も今までにない取組だと言えるだろう。今後の展開も楽しみである。

2011年9月 4日 (日)

熊大情報研+D-Project 9月例会のお知らせ

熊本大学教育学部情報教育研究会+D-project9月例会の案内です.

【もっとiPad!】

熊本大学教育学部情報教育研究会+D-project
情報教育と言語活動

iPad2を持っている人も
持っていない人も
迷っている人も
自由に参加できます。

 iPadは新しい情報端末として教育界にも受け入れられはじめました。しかし,活用方法が分からなければ宝の持ち腐れ。iPadでどこまでできるのか,みんなで考えていきませんか。
Mact0910

■日時:2011年9月10日(土)

■午前の部:9時〜正午 午後の部:1時〜3時
■場所:熊本大学教育学部附属小学校3階コンピュータ室

■主催:熊本大学教育学部情報教育研究会
   D-project(デジタル表現研究会)
■参加費:無料

【午前の部 9時〜正午】
■iPadスキルアップ
第1回:写真の撮影と修正

 iPad2の機能に写真撮影があります。しかし,撮影したそのままの写真では面白くありません。今回は,Adobe Photoshop Expressという無料のアプリを使って,写真撮影と修正を学びます。

iPad2をお持ちの方はPhotoshop Expressをインストールしてきて下さい。

■ADE2011プログラム報告

 ADE(Apple Distinguished Educators)とは、新しいテクノロジーの使い方を提唱し,世界各国の指導方法と学習方法をより良いものにする教育者によるコミュニティです。今年の夏に神戸でその会合が開催されました。今回は,その貴重な体験を報告してもらいます。

■オーストラリア学校訪問報告

 附属小学校の前田陽子先生は,今年の夏にオーストラリアの多くの学校を訪問し,子どもたちがICTを活用する学習を見学しました。さて,どんな学習が行われていたのでしょうか?

【午後の部 1時〜3時】
■ICT模擬授業と学びのプレゼンテーション

~ICTを活用した授業をどう創るか?~

 教師のICT活用指導力が問われています。では,どんな授業を創ればよいのでしょうか。今回は,西尾環先生と渡辺猛先生のお二人にICT模擬授業をしてもらいます。参加者は学んだことをプレゼンテーションし,知見を共有します。前代未聞の研究スタイルです。

準備物:デジタルカメラ+パソコン

午前のみ・午後のみの参加も可能です。
昼食が必要な方は500円で受け付けます。

参加申込み:事前にメールで山口修一まで
yamashu2jp@yahoo.co.jp

「mact110910.pdf」をダウンロード

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