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教員の資質能力向上

2013年3月 6日 (水)

教師の成長・発達とは何か その22

【師匠の役割 2】
 斎藤氏は言う。

「技術そのものを教えることは師の仕事ではある。しかし、自分の行っていることに対して明晰な意識を強く持ち続けること自体を技として修練させることが一層重要な仕事である。」(同掲書)

 つまり、「授業の技」の伝授だけを師匠の仕事とするのではなく、授業の技を高めようとする「明晰な意識」を持ち続けること自体を技として修練することこそが重要だということだ。
 そう考えると、教師の師匠は現役でなければならない。教師にとっての「師匠」もまた「学び続ける教師」でなければならないのである。この意味は大きい。(つづく)

2012年7月23日 (月)

学び続ける教員とは 7

 大学4年生の時に、教育実習で公立小学校にお世話になった。教育実習の最後の日、子どもたち一人一人が私に手紙を書いてきてくれたことを思い出す。その日の放課後の教室、指導をしてくださった先生が、「あなたは将来いい先生になると思うから、この本を贈るわ。」と言って、次の3つの本を私にくださった。

 小原國芳著「師道」(玉川大学出版部)
 小原國芳著「全人教育論」(玉川大学出版部)
 小原國芳著「理想の学校」(玉川大学出版部)

 いずれも昭和40年代に出版された本であり、当時は「ずいぶんと古い本だな」と思ったことを覚えている。もちろん小原國芳の名前さえ知らなかったので、その本の価値など知る由もなかった。
 しかし、今、振り返ってみれば、すごい本をもらったものだ。

 「師道」の中にこのような文章がある。

 ドイツで最初の教師養成学校の校長となったディスティルウェッヒは「進みつつある教師のみを教える権利あり」とまで強く教えてくれました。朝に夕に、自己の足らざるを嘆じて、常に自己修養にいそしみつつある教師からは、眼に見えない火花が、鼻でかげない匂いが迸り出ます。その火花が、その匂いが、人格の光となって教育が出来るのです。だから、たえず「高度の自己」を、「考える自己」を持たねばなりません。

 この歳になって読み返してみると新たな発見がある。(つづく)

2012年7月19日 (木)

学び続ける教員とは 6

 当時の学級通信を読み返すと、圧倒的に国語科の授業記録が多い。国語が得意だったからではない。国語が大の苦手だったからである。新任1年目の1学期は国語の授業ができなくて神経性胃炎になったくらいである。だから、何とかしなくてはならないという気持ちが働いたのであろう。
 しかし、今だったら絶対にこんな授業はやらないという記録もある。
 たとえば、以下のごんぎつねの授業。
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【ごんぎつね 6の場面を考える】

 この日の問題は、ただ一つ。

 「なぜ、ごんは兵十から神様のしわざだと思われても、こっそりとくりやまつたけを持っていったのか。」

 いろいろな意見が出た。
 A:見つかったら殺されると思ったから。(児童名)
 B:兵十は、ごんといっしょで、おっかあがいないから。(児童名)
 C:自分のことを知られたくなかったから。(児童名)
 D:反省のため。つぐないのため。(児童名)
 E:兵十がかわいそうだから。(児童名)
 F:神様と思われてもいいから、つぐないをしたかった。(児童名)
 G:もっていくのをやめたら、兵十が神様に見捨てられたと思うから。(児童名)
 H:内緒にしておくと、いつまでももっていけるから。(児童名)
 I:兵十に、自分が持ってきていることを気づいてほしかった。(児童名)
 J:いつもと同じようにやった。(児童名)
 K:自分のせいで兵十のおっかあが死んでしまったのだから、自分は死んでもいいと思った。(児童名)

 なかなか多様な意見が出た。さすがである。

 「この中でおかしいなと思うものを一つえらんで、理由をノートに書きなさい。」

 いろいろと反対意見が出た。しかし、正解というものはない。
 「自分の意見を言うことが大切です。」と告げた。

 ○Aはおかしい。殺されるとと思うなら、はじめからくりやまつたけを持って行かないのではないか。
 ○Iはおかしい。自分であることを知ってほしいなら、こっそりと持って行く必要はない。堂々と持って行くはずだ。

 この意見も実によく考えている。反論を出したこどもたちも、反論をされた○○さんや○○さんのように反論された子どもたちも頭がきたえられていくのだ。
 だから、国語は面白い。

 「この中で、自分が賛成するものを2つ選んで、ノートに書きなさい。」

 挙手させてみた。結果を示してみる。
 A:1人、 B:2人、 C:14人、 D:10人、 E:1人
 F:27人、 G:2人、 H:9人、 I:0人、 J:0人、 K:7人

 結論を一つにまとめることはしなかった。いろいろな解釈があっていい。
 ○○さんが言うように「殺されるかもしれない。」という非常な場面であってもよいし、○○さんが言うように「こっそりと持っていっているうちに、いつかは兵十が自分のことをわかってくれる。」とごんは思ったかもしれないのだ。
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 タイムマシンがあって、26年前の自分に会うことができたら、叱りつけるところだ。
 まず、この発問に対して、教師は子どもたちに根拠を示させていない。だから、子どもたちは思いつきを述べているにしかすぎない。これでは言葉の学習にならない。
 それから、A、B、C、H、I、J、Kは発問に対する回答になっていない。今の自分だったら、「回答になっていないものを、理由をつけて指摘しなさい。」と指示するだろう。
 また、「いろいろな解釈があっていい。」などとまとめているが、とんでもない話である。文章を根拠にして、とことん話し合わせるべきだ。
 こんな国語の授業をやっていたら、子どもたちの力はつかない。若かったとはいえ、ダメな授業の見本のようなものだ。

 それにしても、国語の苦手だった私が1年後に「だから、国語は面白い。」と書いているのは興味深いところである。
 自分の授業を記録してその批判をする。実は、この繰り返しこそが「自分の授業から学ぶ」ということなのだろう。(つづく)

2012年7月18日 (水)

学び続ける教員とは 5

 授業記録の例として、新卒2年目の4年生担任の頃の学級通信を示す。
 昭和61年のものであり、当時はまだパソコンも普及していなかったので、もちろん手書きの通信である。
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【アリってどんな形?!】

 木曜日の4時間目、水泳の後で子どもたちはつかれていた。

 「みなさんは、アリを見たことがありますか?」

 全員が手をあげた。

 「では、今から、この紙にアリの絵を描いてもらいます。
 自分の頭の中にあるアリでいいのです。
 うまい下手は問いません。時間は5分間です。」

 子どもたちは「えーっ!!」と不満気に声をもらす者、絵を聞いて「よーし!」と頑張る者、様々である。
 四つ切りの画用紙を配る。机間巡視の時に、次の三つができているかどうかを見ていった。

 (ア)体は、頭、胸、腹の三つ部分に分かれているか。
 (イ)足は、6本であることを意識して描いているか。
 (ウ)足は、全部胸から出ているか。

 子どもたちは、いろいろなアリを描いている。実に面白い!
 その中から、体が三つに分かれているものを選び、黒板にそれを写すように指示した。
Ari01

 (なお、机間巡視の結果、次のようなことが分かった。
  (ア)ができているもの・・39人中29人
  (イ)ができているもの・・39人中26人
  (ウ)ができているもの・・39人中7人
  (ア)(イ)(ウ)全部できているもの・・39人中6人)

 「この絵の中で同じところはどこですか。」

 ○三つに分かれている。(児童名)
 ○しょっかくがる。(児童名)
 ○かむところがある。(児童名)
 ○目がある。(児童名)

 「おかしいなあ、もっと知りたいなあ、と思うことを紙に書きなさい。たくさん書けるほどよいのです。」

 一人で13も疑問点を出した人がいた。○○さんである。

 ①足は何本あるのか。
 ②かむところは本当にあるのか。
 ③目は前にあるのか。横にあるのか。
 ④本当に体は三つに分かれているのか。
 ⑤○○君のは足が四つしかないけど、本当に四つなのか。
 ⑥足のところに毛はあるのか。
 ⑦顔のところにしょっかくがあるのか。
 ⑧顔のところに足があるのか。
 ⑨目はまんまるいのか。
 ⑩かむ所は、どんな形をしているのか。
 ⑪目はとび出ているのか。
 ⑫足はかくかくしているのか。
 ⑬むねから足は出ているのか。

 もちろん、他の子どもたちも、5つも6つも疑問点を出した。
 この後、百科事典にのっていたアリを黒板に提示した。
 子どもたちは「へえーっ!」とか「変なの!」などと言っていた。
 このような問題意識を高めさせて、観察させると良いと考える。
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 今、読み返すと恥ずかしいのだが、このような記録をとっていると、あの時の授業を思い出すことができる。
 わざわざ「水泳の後で子どもたちはつかれていた」ということを書いているということは、その後のこの授業がよほど印象深かったのであろう。また、保護者向けの通信であるにもかかわらず「このような問題意識を高めさせて、観察させると良いと考える。」などと書いていることは、そこに私なりの気付きがあったからであろう。
 子どもたちの名前が実名で出てくるので、子どもたちもこのような通信を楽しみにしていたことを思い出す。(つづく)

2012年7月15日 (日)

学び続ける教員とは 4

 自分にとって幸運だったことは、新任の頃、民間教育研究団体の中で、自分の授業の記録を学級通信やレポートにまとめることを推奨されたことだ。今でも、当時の学級通信を見ると、国語の授業の発問や指示、子どもたちの反応などが記録されている。(保護者としては、読むのは大変だっただろうが・・・。)
 そのうちに、図画工作では写真でも記録を行うようになり、そしてビデオでの記録も行うようになっていった。専科の頃は、ブログで授業記録を残すようになっていった。
 このように、自分の授業を記録し文章化していくためには、時間をとって思い返す必要がある。また、それと同時に不十分な点も分かるので、改善案なども考えざるをえなくなった。つまり、自分の授業を思い返すことによって、気付きが生まれていったのである。(つづく) 

2012年7月13日 (金)

学び続ける教員とは 3

 教師は多忙である。
 特に小学校教師は、全ての教科についての授業の準備に追われる。国語の教材研究をやりつつ、体育の道具を確認し、リコーダーの練習をやる、といったことは日常茶飯事である。それに加えて、生徒指導上の問題があれば当然それにも対応しなければならない。そのような状況では、とにもかくにも毎日が「明日の授業の準備をする」ということに終始しまいがちになる。
 授業の準備をする以上、教材研究もしなければならないし、それに関連する教育書や資料も読まなければならない。問題は、それなりに授業が成立していくと、そこで安心してしまうことである。「ちゃんと教材研究もしてるし、教育書も読んでいる」という自負もあり、「自分はそれなりに一生懸命にやっている教師である。」という意識が芽生えてくる。
 考えてみれば、授業の準備は当たり前のことであり、それは「普通」のことなのである。それが数年も継続されていくと、「授業の準備をすること=学ぶこと」という認識になってしまう。
 「明日の授業の準備→授業の実施→明日の授業の準備→授業の実施・・・」の繰り返しのプロセスにおいては、「いつもの自分の授業」に応じた技術や知識や身に付けることはできるが、「いつもの自分の授業」を疑い、抜本的な変革をやり続けていくことはできない。(つづく)

2012年7月10日 (火)

学び続ける教員とは 2

 そもそも「学ぶ」とは何だろう。「学習」とはどう違うのだろう。
 私は以下のように定義している。

 何かに気づき、自分が変わること

 「学習」が、その内容が先にあるのに対して、「学ぶ」は、内容が学ぶ主体の中につくられる。
 「計算の学習」「漢字の学習」とは言うが、「計算の学び」「漢字の学び」とは言わない。
 「人から学ぶ」「失敗から学ぶ」とは言うが、「人から学習する」「失敗から学習する」とは言わない。
 「学ぶ」は、より主体的・能動的な認知的営みだと言えよう。

 そう考えると、「学び続ける」とは以下のような姿勢を指すのではないだろうか。

 常に気づこうとする

 常に変わろうとする

 (つづく)

2012年7月 9日 (月)

学び続ける教員とは 1

 中央教育審議会の教員の資質能力向上特別部会は「教職生活の全体を通じた 教員の資質能力の総合的な向上方策について」審議のまとめを行っている。
 21世紀を生き抜く人材を育成するためにも教育の果たす役割は大きくなっており、そのための教員の資質能力の向上は極めて重要な課題である。
 この審議のまとめの中で強調されているのが「学び続ける教員像」の確立である。
 しばらく、「学び続ける教員」について考えてみることにする。(つづく) 

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