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教師の成長発達

2013年3月 7日 (木)

教師の成長・発達とは何か その23

 若いときはサークル活動をさかんに行った。そのなかで、様々な人に出会い、多くのことを語り合った。特に同世代の人達との語らいは楽しかったし、今でもつきあいは続いている。授業のことについて議論したのを鮮明に覚えている。

 斎藤氏はディスカッションについても述べている。

 「数人が課題意識を共有しながら集まって、ディスカッションをし、各人の暗黙知をやりとりしていく中で、徐々に暗黙知が捉えられていくことの方が多い。
 自分でも気づいていなかったことに気づくためには、なんといっても他者の存在が必要である。」
(同掲書)

 考えてみれば、互いの授業実践や実践家の優れた授業について語り合うことで、様々な気づきが生まれていたのであろう。その意味では、気軽に語り合える仲間や場があることは極めて重要である。
 斎藤氏は言う。

 「自分や他者の暗黙知を明確に把握するために、形式知化する力を鍛えるということが、将来の仕事をする力にもつながっていく。
 本来は身体知を形式知にする力が強調されるべきである。そのうえでは言語は重要な武器となる。」

 土曜日に学校があっていたときは、その日の午後に集まって研究会を行ったり、研究授業を行ったりしていた。そこでたっぷりと話し合っていた。現在は、土曜日は休みになっているが、土曜日の研究会は部活動で参加できない教師が多いと聞く。部活動のために、教師の成長の場としての「語らい」の時間がなくなっているとするならば大きな問題である。

2013年3月 2日 (土)

教師の成長・発達とは何か その19

【研究会参加症候群】
 教師が成長・発達する上で、研究会に参加することは必要不可欠な条件ではある。研究会にさえ行かないようであれば、成長はほぼ見込めない。しかし、研究会に参加することが目的化され、参加するだけで満足してしまっている場合もあるのではないだろうか。やたらと研究会には参加するのだが、授業は一向に上手にならないという教師もいるのではないか。
 著名な実践家や研究者の話を聞くのは確かに面白い。しかし、所詮は他人の知識である。一度、自分の実践知とつなげないと身にならない。

 論語の中の有名な言葉で次のものがある。

「学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し 」

 面白いのは、この言葉が以下のように英訳されていることだ。

Study without reflection is a waste of time; reflection without study is dangerous.

 「思う」が「reflection」と訳されているところが鋭い。

2013年3月 1日 (金)

教師の成長・発達とは何か その18

【実践研究を言語化する8〜何が言えるのかを記す〜】
 教員研修の場でワークショップを行い、最後に学んだことを話し合うことがある。
 グループの代表が、学びについて発表するのだが、その内容にかなりの差がある。
 「児童生徒の立場に立って体験的に学ぶことができた。」といったものもあれば、「集団でしか解決できない課題が重要であるということを学んだ。」といったものもある。
 前者は〝感想〟のレベルであるが、後者は〝実践知〟のレベルである。
 当然〝実践知〟のレベルが要求されるのであるが、自分の経験を実践知に落とし込むのは難しい。ある種の慣れが必要になるからである。そのためには、経験の後に、そこから何が言えるのかを常に考える習慣をもつことだろう。
 たとえば、良くない授業を参観しても、「この先生の授業は下手だ。」と一蹴するのではなく、「この授業はなぜうまくいかないのか。その原因は何か。」と考えてみる。そして、さらに「自分の授業にはそのような点はないのか。あるとすれば、どう改善すべきか。」ということまで考えてみると面白い。
 授業参観後にもった自分の意見が、感想レベルなのか実践知レベルなのかを評価してみることは、省察力を高めることにもつながる。

2013年2月20日 (水)

教師の成長・発達とは何か その17

【実践研究を言語化する7~結果を客観的に記す~】
 現場の教師にとって、一つ一つの毎日の授業に対して、その成果を客観的に評価していくのは不可能なことだろう。また、研究者の論文のような統計学の基本を踏まえた客観的なデータを示すことも難しい。
 しかし、自分が中心的に研究している授業に対して、可能な限り客観的なデータを残せるシステムを作成することは可能である。
 たとえば、子どもたちの自己評価カードに「やるき(=学習意欲)」「グループでの話し合い(=協同学習)」「自分の考え(=個々の思考)」で毎時間4段階で自己評価をさせていく。その平均値の変化を見ると、学習過程のどの段階でどの要素が高まっているのかを知ることはできる。
 また、学習前に「グラフの読み取りのテスト」を行い、学習後に同じ内容のテストを行ったことがある。結果の比較を行えば、学習の成果を知ることができる。
 要は、授業実践を構想する段階で、成果を客観的に残せるシステムまで考えておくことが重要なのだと思う。
 そう考えると、研究テーマが大きすぎるとその成果を客観的に示すことができないだろう。「思考力・判断力・表現力を伸ばす授業」「子どもたちが生き生きと学ぶ学習」といった研究テーマの場合、授業実践報告のみということになり、客観的な成果は曖昧になりがちだ。(つづく)

2013年2月19日 (火)

教師の成長・発達とは何か その16

【実践研究を言語化する6〜実践の具体的な方法を記す〜】

 現場の教師からすれば、研究者の論文には不足している部分がある。
 それは、実践の具体的な方法である。たとえば、学習課題や教師の具体的な指示・発問といったものだ。研究者にとっては「結果の客観性」が優先されるのであろうが、現場の教師にとっては「実践の具体的な方法」を知りたいはずだ。
 そのためには、教師である「自分」が何を子どもたちに語ったのか、どのようなモノを提示したのか、子どもたちはどんな言葉でそれに応じたのか、といったことを記録しておかなければならない。
 このようなものは意図的にやらない限り、案外と残らない。自分が語った言葉は、すぐに消えてしまうのである。(つづく)

2013年2月 4日 (月)

教師の成長・発達とは何か その15

【実践研究を言語化する5〜研究の目的を明らかにする〜】

 現在ブログで書いているようなことは、研究者にとってはあまりにも常識的なことだ。しかし、学校の研究論文では常識とはなっていないことが多い。

 今回の「研究の目的」も、研究者の論文には必ず書かれているものだ。たとえば、「本研究では、○○という教育方法が、学習者の学習成果に及ぼす効果に関して、定量的・定性的な調査によって実証的に検討することを目的とする。」「情報モラル教育において、学習者に著作権の概念を理解させるための効果的・効率的な教授法の分析を目的とする。」といったものである。

 学校の研究論文の場合、研究テーマの後に仮説があって、そのまま実践というパターンが見受けられる。研究論文ではなく実践報告になってしまうのは「研究の目的」がしぼられていないからではないだろうか。

 だから「研究テーマのために、これもやりました。あれもやりました。」的な「実践てんこもり」状態に陥ってしまう。結局、何が言いたいのかが曖昧になりがちだ。(つづく)

2013年2月 2日 (土)

教師の成長・発達とは何か その14

【実践研究を言語化する3〜先行研究について述べる〜】

 問題の所在を明らかにしたら、その問題について、今までに誰がいつどのようなことを研究したのかを述べなくてはならない。研究者による論文には必ず記されている内容だ。たとえば、「鈴木(2001)は、情報モラル教育を系統的に行うためのカリキュラムを提案している。」「田中(2005)は、鑑賞の能力を評価するための評価指標を作成した。その結果、○○ということが明らかになった。」といったものである。

 研究者から見れば当然のことなのだが、現場の教育論文では必ずしも先行研究が述べられているとは限らない。参考文献として最後に示されていることはあるが、本文中に出てくることは多くはない。だから、問題についての取組が浅いままになってしまう。

 研究とは新たな知の構築作業である。実践のためには、まずは先人達の研究の成果を学ぶことが望まれる。それは論文だけではなく、書籍や資料なども含まれる。過去の研究の成果をふまえずに実践しても同じことの繰り返しになってしまうだろう。先行研究を学ぶ過程で教師は成長する。(つづく)

2013年1月31日 (木)

教師の成長・発達とは何か その12

【実践研究を言語化する1】 

 省察は、様々な形で言語化されることが望ましい。
 私の場合は、初期の手段としては学級通信であったり法則化論文であったりした。
 後期はブログを活用しはじめた。ブログであれば、考察も詳細に書き込むことができるし、なんといっても、書いたことが他の教師に役立つからである。何らかの形で「反応」があるのはうれしいことだ。また、アクセス数が増えていくと、やりがいも感じられる。

 一方、「書いた方がいいけど、書くのが大変だ」というものの中に教育論文がある。
 論文のメリットは、自分の実践や考えが一つのまとまりとして示すことができるという点だろう。また、論理的・客観的な思考が求められるという点もある。さらには、書くためには、それなりに先行研究や関連する書籍等も調べなければならないので、書くことによって学習ができるという点はメリットだろう。
 しかし、デメリットもある。まず、反応が少ないことが挙げられる。学会誌に掲載されるような学術論文であれば反応もあるが、通常の教育論文では反応を得ることは難しい。それゆえに労力と時間の割には達成感が得にくい。また、書き方がよく分からない部分も少なからずあり、単なる実践報告になってしまうことにもなりかねない。

 そこで、論文を書くということについて少し考えてみることにする。(つづく)

2013年1月30日 (水)

教師の成長・発達とは何か その11

 昨年読んだ本の中でも特に印象に残った本が以下のものだ。
 F・コルトハーヘン編著、武田信子監訳
 「教師教育学」(学文社)

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 4000円の本だが読み応えは十分である。決して易しい本ではないが、教師教育における「省察」の意味や理論と実践をつなぐための道筋が示されている。
 校内研修や教員研修ワークショップなどに携わる教師にも非常に役立つ内容になっている。

2013年1月28日 (月)

教師の成長・発達とは何か その10

 授業を構造化すると、授業の流れが見えてくる。
 たとえば、以下のように「縄文人と弥生人が戦ったら、どちらが勝つか。」という発問によって、いきなり子どもたちは二者択一に迫られる。
 次に結論を考えて資料集の中からその根拠を探そうとする。最後は、映像コンテンツによって、より具体的なイメージをもって理解することになる。

Jugyoukouzou2

 分かりやすい授業に共通することは、全体の構造が単純であり、なおかつ子どもたちが「根拠」を使って考える場面と時間が確保されている。図にするとすっきりする。
 逆に分かりにくい授業に共通することは、全体の構造が複雑でつながりに乏しく、子どもたちは思いつきや自分の経験だけで考えることが多い。教師の話も長いので、図にすることそのものが難しくなる。
 このように授業を構造化しながら見ていく技能も必要なのだと思う。(つづく)

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