2009年6月22日 (月)

活用型学力とは何か22

【プロジェクト型協同学習のための8つのしかけ その2】
 
 お忙しいところ読んでいただいて大変恐縮です。「8つのしかけ」のつづきです。

⑤ 子ども同士が相互にかかわりあう場をつくること
 互いの意見を出し合ったり、文章を読み合ったりしないと解決できないような状況設定をすることです。
 たとえば、「写真を選ぶ」という活動は一人でやれば言葉にする必要はありません。しかし、グループでやろうとすれば意見を出し合わざるをえなくなります。結果として、子どもたちは仲間を説得するために、自分の思考を言葉にしていくという知的な作業を行うことになります。
 また、それぞれが個別に書いた文章を比較検討して一つにまとめていくような作業も効果的です。そうすることによって、子どもたちはよりよい表現を学ぶようになります。自分が伝えたいことが相手に伝わるのかどうか、相手の立場に立って客観的に評価する機会になるわけです。

⑥ 教師も子どもと相互にかかわりあう場をつくること 
 教師が、子どもたちに対する「壁」となることも必要です。子どもたちのアイデアに対して、簡単には「合格」を出さないわけです。「この文章ではつながらない」「この流れでは分かりにくい」という「批判」を突きつけることも必要です。子どもたちが協同してその「壁」を乗り越えようとするとき、思考は活性化され、達成感が生まれます。困難な状況を力を合わせて解決したとき、子どもたちの力は向上します。
 逆に、自分たちだけでは解決できないとき、教師は「助っ人」にもなります。なかなか先に進めないグループには、教師側から「こんなことをやってみたらどうだろう。」「そのことを実現するためには、この資料を見るといいよ。」といったアドバイスを与えていきます。このような支援的な立場に教師がなることも必要です。

⑦ タイムリミットを設定すること
 社会ではどんな仕事でも締め切りが設定されます。締め切りがあるからこそ、人間は真剣になります。
 プロジェクト学習においても、局面ごとに時間を守らせることが極めて重要です。たとえば、「シナリオづくりは、今日の国語の授業が終わるまで」という具合に具体的に締め切りを設定します。子どもたちは、締め切りを守るために必死になるはずです。必死になるから、互いに協力して解決しようとします。
 時間が制限されているからこそ、役割を分担しながら効率的に進めていくことを学んでいくわけです。時間をいかに上手に使っていくか、ということも思考力を高めていくことになります。

⑧ 課題達成をみんなで祝うこと
 課題達成のためには、様々な苦労があったはずです。途中でケンカになったこともあるでしょう。うまくいかずに、途方に暮れることもあったかもしれません。ハードルが高いほど子どもたちは大変な目にあうはずです。しかし、その分、課題を達成したときの喜びは大きいでしょう。ビデオの作品が完成したら、ぜひみんなで視聴する時間をもうけるべきでしょう。新聞が完成したら、その感想を話し合う時間をもうけるべきです。授業参観や懇談会で見せるのも良い方法だと思います。給食時間に牛乳で乾杯するようなささやかなものでも良いし、楽しいイベントでも良いのです。
 教師は、子どもたちの成長を喜び、その努力を大いにほめなくてはなりません。子どもたちの達成感・満足感は次の学習への意欲へつながっていくのだと思います。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月15日 (月)

活用型学力とは何か21

【プロジェクト型協同学習のための8つのしかけ その1】

 いよいよ4年生の研究授業が近づいてきました。すでに単元はスタートしています。(^_^;)
 さて、プロジェクト型の協同学習は単なるグループ学習とは異なります。教師による「しかけ」が必要だと思っています。そこで、その学習を効果的にすすめるための「8つのしかけ」について説明します。

① 協同で解決できるだけの「高いゴール」を設定する
 プロジェクト型の協同学習には、「レベルの高いゴール」の設定が望ましいのです。能力の高い子どもであれば一人で解決できるような「低いゴール」の設定ではだめなのです。
 子どもたちが力を合わせて必死になって達成できる「高いゴール」設定が必要です。そうしないと、能力の高い子どもは「教える人」、能力の低い子どもは「教えてもらう人」の関係に固定化されてしまうからです。たとえば、全学年の子どもたちにアンケートをとってそれをグラフにするような課題は、グループ全員が協力しないと達成できません。大変だけど自分は仲間に必要とされている、という意識をもたせることが重要なのだと思います。

② リアルで必然性のあるゴールを設定する
 必然性のないゴールでは、学習の目的に意味がなくなってしまいます。たとえば、新聞づくりの場合「誰に何のために作るのか」という相手意識と目的意識が曖昧であると、「新聞づくり」そのものが目的となってしまいます。結果として、「つくって終わり」の学習になりがちです。
 そこで、ゴールを「全学年の子どもに向けて、挨拶や外遊びをよびかけるための新聞をつくろう」という課題にしてみます。そうすると、それに応じた取材が必要になるし、撮影も必要になります。文章も「子ども向け」に書かなくてはならなくなります。できた後に、感想をもらい、その効果を確かめることもできましょう。

③ 生の情報を得る場を設定する
 生の情報とは、誰かが編集していない「一次情報」ということです。もっとも顕著なものが直接体験で得られる情報です。また、統計データや図表も含まれます。このような一次情報が重要なのだと思います。なぜならば、そこには、誰かの「考え」は記されていないからです。だから、子どもたちは自分自身の力で、その情報を解釈し自らの考えを生み出さなくてはならなくなるのです。
 たとえば、ユニバーサルデザインについて調べる場合、インターネットや図書の情報(二次情報)では不十分です。実際にユニバーサルデザインが使われている現場に行き、それを使ってみないと、その良さは分からないはずです。体験を言葉にしていく活動が思考力を高めていくことになるのだと思います。

④ 考える視点をもたせる
 生の情報は、そのままでは解釈しにくいので、考えるための視点をもたせることが必要になります。たとえば、調べ学習の前には「結果の予想」をさせてみるとよいでしょう。結果が予想と反した場合、その理由を考えるようになります。「家のお手伝いは高学年の子どもほどやっているだろう」と予想した子どもたちが、結果がその逆であれば、その理由をさらに調べたくなるはずです。 
 また、統計情報であれば、「数値全体の変化」「数値の全体に対する割合」といった視点をもつことで解釈ができるようになります。これはグラフの読み取り方を指導することになります。
 どのような「考える視点」をもたせるかは、単元のねらいによって異なってきます。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月10日 (水)

活用型学力とは何か20

【プロジェクト型の協同学習 その2】

 月曜日の校内研修はおつかれさまでした。長い説明にもかかわらず一生懸命に聞いていただいたことに感謝申し上げます。今年度の校内研の大切なキックオフだと思っています。

 さて、プロジェクト型の協同学習は単なるグループ学習ではありません。グループで活動をしても「何を学習したのか」という意識が低かったり、それぞれのかかわりあいが薄かったりした場合は「協同学習」とは言えないからです。また、他者と相互作用する中で「知識が構築されていくプロセス」が重要な活動になります。

 心理学者ヴィゴツキーは言います。

**********************
 共同の中では、子どもは自分一人でする作業のときよりも強力になり、有能になる。
 かれは、自分が解く知的難問の水準を高く引き上げる。

         ヴィゴツキー著・柴田義松訳「思考と言語」

**********************


 新聞に掲載する写真を選ぶ活動を想定してみましょう。「写真を選ぶ」という作業は、「伝える目的」「見せる相手」「写真の構図」「記事との整合性」などを考えなくてはならなりません。簡単そうですが、かなり知的な活動となります。

 この活動をグループで行う場合、子どもたちはそれぞれに「選んだ理由」を言葉にして言わざるをえなくなります。「こちらの写真の方が校舎の大きさが分かるよ。」「先生の表情は、こちらの笑顔の写真の方が見た感じがいいよ。」といった仲間への説得を試みるような会話がなされるはずです。子どもたちは、グループの仲間のこのような「考え方」や「やり方」を見て学び、模倣することで、できないことができるようになっていくわけです。
 したがって、ここでは「写真を選ぶこと」そのものに価値があるのではなく、「写真を選ぶために考えたことを言葉にして交わし合うこと」に価値があるわけです。
だから、
教師は活動の前にその意義を説明しなくてはならなりません。たとえば、次のように語るべきです。


**********************

 写真を選ぼうとすれば、自分の考えを「言葉」にして仲間に伝えなくてはなりません。そうすると考える力を高めることになります。だから、「写真を選べばよい」ということではなく、仲間と真剣に話し合うということが「学習」になるのです。そう考えると、自分の考えを言わずに黙っていたり、一人ばかりでしゃべって決めたりすることは、「学習」とは言えなくなります。それぞれが協力して、写真を選ぶための考えを互いに出し合えるようにしなさい。そのことが「学習する」ということなのです。

**********************


 つまり、「各々が言葉にする」という活動の意義を、子どもも教師も意識していなければならないわけです。
子どもの学年が上がるにしたがって、このような学習の意義をよく理解できるようになります。
「写真を選ぶ」という行為を教師が、「目的」として捉えているか、「方法」として捉えているかでは、指導も評価も異なってきます。だから、教師が活動の意義を理解していないと、形だけの協同学習になってしまう危険性があります。「新聞をグループで制作すればよい」というわけではないのです。(つづく)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 5日 (金)

活用型学力とは何か19

【プロジェクト型の協同学習 その1】

 皆様、お元気でしょうか。運動会が終わってほっとしていたら、今月末には私の研究授業がひかえておりました。自分で提案して自分で研究授業をするのは何だか気が引けますが、がんばります。(^_^;)
 今度の研究授業では、プロジェクト型の協同学習で行おうと考えています。そこで、プロジェクト型の協同学習について、その方法論と理論について述べていきたいと思います。

 PISA型読解力で1位をとったフィンランドの授業をNHKの特集で見ることがありましたが、そこではプロジェクト型の協同学習が行われていました。西オーストラリアで視察したメディア科の授業も基本的にはプロジェクト型の協同学習でした。
 PISA型読解力を高める方法として、あるいは活用型・探究型の学力を高める方法としてプロジェクト型の協同学習は極めて有効だと思っています。
 
 プロジェクト学習とは、ある目的を達成するために協同で取り組んでいく課題解決型の学習です。子どもたちは、自らの目標を達成するために、様々なアイデアを話し合いながら、学習をすすめていくことになります。

 たとえば、「うちの人に子どもたちの生活の様子を知らせるような報告書をつくろう」という課題を設定します。その課題を解決するために、子どもたちはアイデアを考えて話し合い、アンケートをとって集計したり、自分たちで報告文を書いたりしながら学習をすすめていきます。子どもたちは、課題解決のプロセスの中で意味のある言語活動を行いながら、国語力を高めていくことになるわけです。

 プロジェクト型の協同学習は、プロジェクト学習やプロジェクト・メソッドなどとよばれています。 英語表記ではProject based learningであり、略してPBLと記載されることもあります。
 もともとは、アメリカの教育学者W.H.キルパトリック(1871-1965)が提唱した教育方法であり、共同作業を通して学習者の興味・関心に応じた目標達成のプロセスを経験させるものです。学習者は、そのプロセスにおいて必要な知識やスキルを学ぶことになります。
基本的には問題解決型の学習にもなるので、総合的な学習の時間のカリキュラム開発のモデルとなることが多いのです。
 プロジェクト学習には、以下の要因が含まれます。

(1)学習者主導型の学習である。
(2)チームを構成して行う学習である。
(3)全員が参加する学習である。

(4)体験的な学習である。

(5)知識・技能を構築していく学習である。

 特に、(5)は重要です。あらかじめ習得すべき知識や技能を教師が授けて、それを学習者が受動的に覚えるというものではありません。
(参考文献:「現代教育方法事典」(図書文化)、「教育工学事典」(実教出版))

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年6月 2日 (火)

活用型学力とは何か18

【思考力・判断力・表現力をはぐくむ学習活動】

 運動会、大変おつかれさまでした。とってもいい運動会だったと思います。(私はホントにダンスが苦手です。(T_T))準備や後片付けもスムーズでチームワークのすばらしさを実感したところでした。
 さて、「研究通信の出し過ぎ」というご批判を受けつつ、また出してすみません。(^_^;)
 色々と資料を示しながら出してまいりましたが、私の結論は単純です。以下がそれです。


 教科の学習において、知識・技能の活用場面を組み込みつつ、探究型の学習過程で授業設計を行う


 中央教育審議会が示した以下の学習活動を取り入れつつ、【課題設定】【情報の収集】【整理分析】【まとめ・表現】の学習活動を行うと言い換えてよいと思います。

*******************************
○ 現在の各教科の内容、PISA調査の読解力や数学的リテラシー、科学的リテラシーの評価の枠組み などを参考にしつつ、言語に関する専門家などの知見も得て検討した結果、知識・技能の活用など思考力・判断力・表現力等をはぐくむためには、例えば、以下のような学習活動が重要であると考えた。このような活動を各教科において行うことが、思考力・判断力・表現力等の育成にとって不可欠である。
① 体験から感じ取ったことを表現する
(例)・日常生活や体験的な学習活動の中で感じ取ったことを言葉や歌、絵、身体などを用いて表現する
② 事実を正確に理解し伝達する
(例)・身近な動植物の観察や地域の公共施設等の見学の結果を記述・報告する

③ 概念・法則・意図などを解釈し、説明したり活用したりする
(例)・需要、供給などの概念で価格の変動をとらえて生産活動や消費活動に生かす

・衣食住や健康・安全に関する知識を活用して自分の生活を管理する

④ 情報を分析・評価し、論述する
 
(例)・学習や生活上の課題について、事柄を比較する、分類する、関連付けるなど考えるための技法を活用し、課題を整理する

・文章や資料を読んだ上で、自分の知識や経験に照らし合わせて、自分なりの考えをまとめて、A4・1枚(1000字程度)といった所与の条件の中で表現する

・自然事象や社会的事象に関する様々な情報や意見をグラフや図表などから読み取ったり、これらを用いて分かりやすく表現したりする

・自国や他国の歴史・文化・社会などについて調べ、分析したことを論述する

⑤ 課題について、構想を立て実践し、評価・改善する
(例)・理科の調査研究において、仮説を立てて、観察・実験を行い、その結果を整理し、考察し、まとめ、表現したり改善したりする
   
・芸術表現やものづくり等において、構想を練り、創作活動を行い、その結果を評価し、工夫・改善する

⑥ 互いの考えを伝え合い、自らの考えや集団の考えを発展させる
(例) ・予想や仮説の検証方法を考察する場面で、予想や仮説と検証方法を討論しながら考えを深め合う
     
・将来の予測に関する問題などにおいて、問答やディベートの形式を用いて議論を深め、より高次の解決策に至る経験をさせる
(中央教育審議会答申 p25)
*******************************

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月30日 (土)

活用型学力とは何か17

【探究的な学習のポイント】

 運動会の直前で大変なときですが、お読みいただいて恐縮しております。この通信を読んでくださって「学習指導要領解説・総合的な学習の時間編」を買って読んで下さった先生がいらっしゃって感激しました。大変ありがとうございます。
 前回でも書きましたが、活用型の学習を考えるためには、探究型の学習が分かっていなければならないと思うのです。今回の「総合的な学習の時間編の解説」は反省点もふまえて書かれているので大変役立ちます。その「解説編」には「学習過程を探究的にすること」として以下のように書かれています。

****************************
1 学習過程を探究的にすること
 探究的な学習とするためには,学習過程が以下のようになることが重要である。
 ① 【課題の設定】体験的な活動などを通して,課題を設定し課題意識をもつ
 ② 【情報の収集】必要な情報を取り出したり収集したりする
 ③ 【整理・分析】収集した情報を,整理したり分析したりして思考する
 ④ 【まとめ・表現】気付きや発見,自分の考えなどをまとめ,判断し,表現する
 なお,ここでいう情報とは,判断や意思決定,行動を左右するすべての事柄を指し,広くとらえている。言語や数字など記号化されたものによって情報を得ることもできるし,具体物とのかかわりや体験活動など,事象と直接かかわることによって情報を得ることもできる。
 (学習指導要領解説・総合的な学習の時間編 p86)
****************************

 ここで言う「情報」は大きな意味をもちます。新聞・テレビ等の狭い意味での「情報」とは異なります。
 さらに、「他者と協同して取り組む学習活動にすること」という部分に以下のように書かれています。
 どうやら「学習過程」と「協同的な学習活動」が大きなポイントになりそうです。

****************************
2 他者と協同して取り組む学習活動にすること
 総合的な学習の時間においては,特に,他者と協同して課題を解決しようとする学習活動を重視すべきである。それは,多様な考え方をもつ他者と適切にかかわり合ったり,社会に参画したり貢献したりする資質や能力及び態度の育成につながるからである。また,協同的に学ぶことにより,探究的な学習として,児童の学習の質を高めることにつながるからである。
 協同的に学ぶことの価値の一つ目は,多様な情報の収集につながることである。同じ課題を追究する学習活動を行っていても,収集する情報は協同的な学習の方が多様であり,その量も多い。情報の多様さと多さは,その後の整理や分析を質的に高めるために欠くことのできない重要な要件である。二つ目は,異なる視点から検討ができることである。整理したり分析したりする際には,異なる視点や異なる考え方があることの方が,深まりが出てくる。一面的な考え方や同じ思考の傾向の中では,情報の整理や分析も画一的になりやすい。三つ目は,地域の人と交流したり友達と一緒に学習したりすることが,相手意識を生み出したり,学習活動のパートナーとしての仲間意識を生み出したりすることである。共に学ぶことが個人の学習の質を高め,同時に集団の学習の質も高めていく。            (同掲書 p91)
****************************

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月26日 (火)

活用型学力とは何か16

【生きる力と総合的な学習のねらい】

 さて、少し、まとめながら話を進めます。
 あらためて言うまでもありませんが、学習指導要領が目指すものは「生きる力」です。「生きる力」とは以下の内容であることを、まず確認します。

**************************
 我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。
(1996年 中央教育審議会答申より)
**************************

 それは、OECDが主張するキーコンピテンシーと同じ方向性だと言えます。そして、その理念に基づいて、探究型の学習として「総合的な学習の時間」が創設されました。ここで、あらためて総合的な学習の時間」のねらいを確認してみます。

**************************
「総合的な学習の時間」のねらい
 横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに,学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的,協同的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにする。
(「平成20年 学習指導要領」より)
**************************

 しかし、「総合的な学習の時間」には様々な問題点も生じました。「補充学習のような専ら特定の教科の知識・技能の習得を図る教育が行われたり,運動会の準備などと混同された実践が行われたりしている例も見られる。(学習指導要領解説「総合的な学習の時間」編より)」といったことも指摘されています。
 また、体験の羅列状態になっており、本来の「探究型」の学習になっていないという批判もよく聞かれます。
 そこで、各教科における「習得型の学習」と総合的な学習に代表される「探究型」の学習に結びつけるために「活用型:の学習が考え出されました。両者の橋渡し的な役割を担うものです。そう考えると、「探究型」が目指す本来の学習の姿が分からないと、「活用型」の学習も分からないということになります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月22日 (金)

活用型学力とは何か15

【キーコンピテンシーと「総合的な学習で育てたい力」】
 運動会の練習真っ最中。研究どころではないという雰囲気なのに・・・申し訳ないです。中央教育審議会答申の中で「総合的な学習で育てたい力」の解説として以下のことが挙げられています。

*************************
 「学習方法に関すること」、「自分自身に関すること」、「他者や社会とのかかわりに関すること」のそれぞれの視点から、考えられる育てたい力の例としては、次のようなものが考えられる。
・学習方法に関すること:情報を収集し分析する力、分かりすくまとめ表現する力など
・自分自身に関すること:自らの行為について意思決定する力、自らの生活の在り方を考える力など
・ 他者や社会とのかかわりに関すること:他者と協同して課題を解決する力、課題の解決に向けて社会活動に参加する態度など
(中央教育審議会最終答申2008より)
*************************

 この三つはキーコンピテンシーの三つの力とほぼ一致します。どちらが先なのかは私も知りませんが・・・。そんなことを考えていたら、「総合的な学習・解説編」には次のように書いてあります。

*************************
 中央教育審議会の答申では,育てようとする資質や能力及び態度の視点として,「学習方法に関すること」(例えば,情報を収集し分析する力,分かりやすくまとめ表現する力など),「自分自身に関すること」(例えば,自らの行為について意思決定する力,自らの生活の在り方を考える力など),「他者や社会とのかかわりに関すること」(例えば,他者と協同して課題を解決する力,課題の解決に向けて社会活動に参加する態度など)といった三つを例示している。
 これらの育てようとする資質や能力及び態度について,例えば,地域の川を対象とした環境問題について探究的に学習する場合には,次のように考えられる。まず,学習方法に関することとしては,「生息している生物を採取し,他の川と比較するなどして分析する」「分かったことなどをグラフや地図に表す」などが考えられる。そして,自分自身に関することとしては,「日常生活において,川にはゴミを捨てない,生活排水を少なくするなど,自らの生活を見直し身の回りの環境問題に関して意思決定し行動しようとする」など,他者や社会とのかかわりに関することとしては,「他の児童と協力して調査したり,地域の人々から話を聞いたりして探究する」「地域の人々と協力して川を守る活動に参画しようとする」などが考えられる。このように各単元においては,育てようとする資質や能力及び態度を,児童が取り組む学習活動との関連において具体的に示すことが必要である。
 これらの視点は,これまで全国で取り組まれてきた実践事例を整理する中で見出されてきたものである。また,この三つの視点は「知識基盤社会」の時代を担う子どもたちに必要とされている国際標準の学力であるOECDの主要能力(キー・コンピテンシー)に符合している。「社会・文化的,技術的ツールを相互作用的に活用する力」はおよそ「学習方法に関すること」と,「多様な社会グループにおける人間関係形成能力」はおよそ「他者や社会とのかかわりに関すること」と,「自立的に行動する能力」はおよそ「自分自身に関すること」とそれぞれかかわりがある。
           (「学習指導要領解説 総合的な学習の時間編」より)
*************************

 つまり、総合的な学習のような「探究型の学習」で育てるべき力は、キー・コンピテンシーとほぼ一致すると考えてよいでしょう。そう考えると、「活用型の学習」の方向性も見えてくると思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月20日 (水)

活用型学力とは何か14

【キーコンピテンシーと「生きる力」】

 中央教育審議会答申を読み直してみると、「知識基盤社会」「キーコンピテンシー」「PISA」という言葉が頻繁に登場してきます。たとえば以下の文章です。それらをかなり意識していることがよく分かります。

**************************
 経済協力開発機構(OECD)は、1997年から2003年にかけて、多くの国々の認知科学や評価の専門家、教育関係者などの協力を得て、「知識基盤社会」の時代を担う子どもたちに必要な能力を、「主要能力(キーコンピテンシー)」として定義付け、国際的に比較する調査を開始している。このような動きを受け、各国においては、学校の教育課程の国際的な通用性がこれまで以上に強く意識されるようになっているが、「生きる力」は、その内容のみならず、社会において子どもたちに必要となる力をまず明確にし、そこから教育の在り方を改善するという考え方において、この主要能力(キーコンピテンシー)という考え方を先取りしていたと言ってもよい。
(中略・・・前田)
 これまで述べてきたように、「知識基盤社会」の時代を担う子どもたちに求められているのは、「生きる力」である。OECDが、各国の15歳の子どもたちを対象にPISA調査を実施するのも、次代を担う子どもたちの主要能力(キーコンピテンシー)が、一人一人の子どもの自己実現の基盤となるだけではなく、社会全体の発展の原動力になっているとの認識があるからである。
 現行学習指導要領は、学校教育において、この「生きる力」をはぐくむことを目標としている。
 (中央教育審議会最終答申2008より)
**************************

注目すべきは総合的な学習の改善の具体的事項の部分です。

**************************
(ⅱ)改善の具体的事項
(ア) 総合的な学習の時間のねらいについては、小・中・高等学校共通なものとし、子どもたちにとっての学ぶ意義や目的意識を明確にするため、日常生活における課題を発見し解決しようとするなど、実社会や実生活とのかかわりを重視する。また、総合的な学習の時間においては、教科等の枠を超えた横断的・総合的な学習、探究的な活動を行うことをより明確にする。
(イ) 学校間・学校段階間の取組の実態に差がある状況を改善するため、総合的な学習の時間において育てたい力の視点を例示する。その際、例示する視点は、学習方法に関すること、自分自身に関すること、他者や社会とのかかわりに関することなどとする*1。
**************************

(イ)の解説として以下のことが書いてあります。

**************************
*1 「学習方法に関すること」、「自分自身に関すること」、「他者や社会とのかかわりに関すること」のそれぞれの視点から、考えられる育てたい力の例としては、次のようなものが考えられる。
・学習方法に関すること:情報を収集し分析する力、分かりすくまとめ表現する力など
・自分自身に関すること:自らの行為について意思決定する力、自らの生活の在り方を考える力など
・他者や社会とのかかわりに関すること:他者と協同して課題を解決する力、課題の解決に向けて社会活動に参加する態度など
**************************

(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月17日 (日)

活用型学力とは何か13

【キーコンピテンシーとPISA調査】

 さて、キーコピンテンシーについて紹介してきましたが、ここで少しまとめてみます。
 国際的に共通する能力概念としてのキーコンピテンシーとは以下です。

*****************************
1、「道具」を相互作用的に使用できる能力
 1A:言語、シンボル、テクストを相互作用的に用いる能力
 1B:知識や情報を相互作用的に用いる能力
 1C:技術を相互作用的に用いる能力

2、異質な人々と相互に関わり合う能力
 2A:他人といい関係を作る能力
 2B:協力する能力
 2C:争いを処理し、解決する能力

3、自律的に行動する能力
 3A:大きな展望の中で活動する能力
 3B:人生計画や個人的プロジェクトを設計し実行する能力
 3C:自らの権利、利害、限界やニーズを表明する能力
(「THE DEFINITION AND SELECTION OF KEY COMPETENCIES Executive Summary」) 
*****************************

 PISAのねらいは、キーコンピテンシーの枠組みを根拠とする知識や学習に対して個人がどの程度アプローチできるかを測ることにあります。そう考えると、以下のPISAの定義も意味のあるものに読めてきます。

*****************************
読解力(読解リテラシー)
 自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力
数学的リテラシー
 数学が世界で果たす役割を見つけ、理解し、現在及び将来の個人の生活、職業生活、友人や家族や親族との社会生活、建設的で関心を持った思慮深い市民としての生活において確実な数学的根拠にもとづき判断を行い、数学に携わる能力
科学的リテラシー
 自然界及び人間の活動によって起こる自然界の変化について理解し、意思決定するために、科学的知識を使用し、課題を明確にし、証拠に基づく結論を導き出す能力
(OECD「PISA2003年調査評価の枠組み」国立教育政策研究所監訳、ぎょうせい)

*****************************

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月15日 (金)

活用型学力とは何か12

【自律的に活動する能力:展望力・設計実行力・表明力】

 なかなか難しい能力ですね。教師にももちろんあてはまると思います。
 (引用が長くなりすぎましたので、近々削除します。大変申し訳ありません。m(_ _)m)
********************************

コンピテンシー3A:大きな展望の中で活動する能力
 このキー・コンピテンシーが個人に求めるのは、自分の行為や決定をいっそう広い文脈で理解し考える力である。つまり、自分たちが他のものとどのように関係しているかを考慮すること、たとえば社会的なルールや社会的、経済的な組織、そして過去に起こった出来事との関係を考えることが求められる。人は、自分自身の行為や決定がこうした広い図のどこにどのようにあてはまるかを知る必要がある。
 たとえば、
● パターンの認識
● 自分たちが存在しているシステムについての理想を持つ。(たとえば、その文化、実践、公式・非公式のルールや期待、その中で果たす役割を理解し、法律や規則、また文書化されていない社会規範や道徳作法、マナーや慣習を理解する。)こうした行為を制約する知識をもつことで権利についての理解を補う
● 自分の行為の直接的・間接的な結果を知る
● 個人および共通の規範や目標に照らして起こりうる結果を考えながら、違う道に至る行為から選択を行う

コンピテンシー3B:人生計画や個人的プロジェクトを設計し実行する能力
 このコンピテンシーは個人の活動計画を考えるために役立つ。自分の実践をまとまった物語と見なし、バラバラになりがちな人生について、変化する環境の中でそこに意味と目的を与えることが求められる。
 (中略・・・前田)各個人に求められるものとして次のようなものがある。
● 計画を決め、目標を定める
● 自分が利用できる資源と必要な資源を知り、現状を評価する(時間、お金など)
● 目標の優先順位を決め、整理する
● 多様な目標に照らして必要な資源のバランスを取る
● 過去の行いから学び、計画の進展に応じて必要な調整を行う

コンピテンシー3C:自らの権利、利害、限界やニーズを表明する能力
 このコンピテンシーは、高度に制度化された法的な事項から、個人的な利害の主張を含む日常的な事例にいたるまでの広い状況で重要となる。多くの権利や要求は法律や契約が作られ擁護されているが、他の人々のものと同じように個人がその権利や要求、利益を知って自ら評価し、また積極的に主張して守るのは、最終的には個人次第である。(中略・・・前田)このコンピテンシーが求める能力としては次のものがある。
● 選挙などのように自分の利害関心を理解する
● 個々のケースの基礎となる文書化された規則や原則を知る
● 承認された権利や要求を自分のものとするための根拠を持つ
● 処理法や代替的な解決策を指示する
「キー・コンピテンシーの定義と選択【概要】」(ドミニク・S・ライチェン ローラ・H・サルガニク編著 立田慶裕監訳「キー・コンピテンシー」(明石書店)より)
********************************

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月13日 (水)

活用型学力とは何か11

【自律的に活動する能力Act autonomously】

 キーコンピテンシーを一つ一つ詳細に読んでいくと、OECDのDeSeCoプロジェクトは、なかなか良いことを言っているように思えます。「有能で責任感があり思いやりのある人間」ということなのでしょう。
 さて、キーコンピテンシーの三つのカテゴリーの三つ目は、「自律的に活動する能力(Act autonomously)です。「autonomou(英)」は、「自治の」「自治権のある」「(・・・から)独立した」「自律的な」という意味があります。DeSeCoプロジェクトは以下のように主張します。

************************
カテゴリー3 自律的に活動する。 
 自律的に活動するとは、社会的に孤立して働くことを意味するのではない。反対に、個人が、自分の社会的な関係や自分が果たしている役割と果たしたい役割といった自分の環境に気づくことが求められる。自分の生活と労働条件にわたる調整を行いながら自分の生活を意味あるものにして責任をもつ仕方で管理できるような力をもつことが人に求められるのである。社会の発展に効果的に参加し、職場や家庭生活、社会生活を含む生活のそれぞれの面でよりよく働くためにも、個人は自律的に活動しなければならない。その理由は、大勢に従うだけではなく、人は自分の価値と活動について考えようとする。
 (中略・・・前田)
 一般に、自律性が要求されるのは、自分が果たしている役割と果たしたい役割、そして社会的関係といった自分の環境への気づきと将来への方向性である。しっかりした自己概念を持ち、意志を持った行為、つまり決定や選択、そして実際の活動に欲求や要求を置き換える能力を、この自律性は前提としている。
「キー・コンピテンシーの定義と選択【概要】」(ドミニク・S・ライチェン ローラ・H・サルガニク編著 立田慶裕監訳「キー・コンピテンシー」(明石書店)より)
************************
 このコンピテンシーもさらに三つにわかれます。

************************
3A:The ability to act within the big picture(大きな展望の中で活動する能力)
3B:The ability to form and conduct life plans and personal projects
(人生計画や個人的プロジェクトを設計し実行する能力)
3C:The ability to assert right, interests, limits and needs
(自らの権利、利害、限界やニーズを表明する能力)
(「THE DEFINITION AND SELECTION OF KEY COMPETENCIES Executive Summary」)
************************
 これから想起できる学習のキーワードとしては「計画性」「目標達成」「自らの意志に基づく選択と決定」といったことが挙げられます。(毎回読んで下さって本当にありがとうございます。感謝・感謝です。)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月12日 (火)

活用型学力とは何か10

【人間関係力:対話力・協働力・解決力】

 必要な能力として「人間関係力」を重視しているところが面白いところです。特に●で書かれている部分は、学習を設計する上では重要だと思います。われわれ教師にも当てはまりますね。(^_^;)

*******************************
コンピテンシー2A:他人といい関係を作る能力
 このコンピテンシーが仮定しているのは、人が自分がよいと感じる環境を創り出すためには他の人の価値観、信念、文化や歴史を尊敬し評価できるだけなく、それらを取り入れて成長するということである。他の人々とうまく協力していく必要条件は次の点である。
● 共感性・・他人の立場に立ち、その人の観点から状況を想像する。これは内省を促し、広い範囲の意見や信念を考える時、自分にとって当然だと思うような状況が他の人に必ずしも共有されるわけではないことに気づく
● 情動と意欲の状態と他の人の状態を効果的に読み取る

コンピテンシー2B:協力する能力
 協力に必要なのは、個々人が一定の資質をもつことである。その個々人に求められるのは、自分自身の優先順序の中でグループの目標とグループへの関わりとを調整できることであり、リーダーシップを分け合い他者を支援することができなければならない。
 このコンピテンシーの特定の構成要素としては次のものがある。
● 自分のアイデアを出し、他の人のアイデアを傾聴する力
● 討議の力関係を理解し、基本方針に従うこと
● 戦略的もしくは持続可能な協力関係を作る力
● 交渉する力
● 異なる反対意見を考慮して決定できる包容力

コンピテンシー2C:争いを処理し、解決する能力
 建設的な方法で争いに取り組む鍵は、争いを否定しようとするよりも、何かを行うための一つのプロセスとして争いを認識することである。そのために必要とされるのは、他方のニーズと利害を考慮しながら両方が利益を得られるような解決策の工夫である。
 個人が争いを処理し解決する積極的な役割を担うために、以下の能力が必要となる。
● できるだけ異なる立場があることを知り、現状の課題と危機にさらされている利害(たとえば、権力、メリットの認識、仕事の配分、公正)すべての面から争いの原因となる理愉を分析する
● 合意できる領域とできない領域を認識する
● 問題を再構成する
● 進んで妥協でいる部分とその条件を決めながら、要求と目標の優先順位をつける。
「キー・コンピテンシーの定義と選択【概要】」(ドミニク・S・ライチェン ローラ・H・サルガニク編著 立田慶裕監訳「キー・コンピテンシー」(明石書店)より)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月 7日 (木)

活用型学力とは何か9

【異質な人々と相互に関わり合う能力 Interact in heterogeneous groups】

 キーコンピテンシーの三つのカテゴリーの二つ目は、「異質な人々と相互に関わり合う能力(Interact in heterogeneous groups)です。「heterogeneous(英)」は、「異種の」「異質の」「混成の」「雑多な」という意味があります。「interact(英)」は前述したように、「相互に影響を及ぼし合うこと」という意味です。以下に引用した図書には「交流する」と訳してありますが・・・。(^_^;)
 DeSeCoプロジェクトは以下のように主張します。

*********************
カテゴリー2 異質な集団で交流する。 
 人生を通じて、人間は、物質的・心理的に生存するためにも、そして社会的なアイデンティティの獲得という面でも、他の人々とのつながりに依存している。社会がいろいろな点でいっそう断片化し、多様化するようになってきている時に、個人間の人間関係をうまく管理することは、個人の利益からも新しい形の協力関係を作る上でもいっそう重要になってきている。既存の社会的な絆が弱められつつある時、強い絆を形作る能力をもつ人々が新しい絆を作りだすように、人間関係のような社会的資本の構築が重要なのである。
 将来における不公平な資本配分の一つの可能性は、社会関係を作りそこから利益を得る能力がいろいろなグループで異なることだろう。
 このカテゴリーのキー・コンピテンシーは、他の人々と共に学び、生活し、働くことを個人に求める。「社会的能力」、「ソーシャルスキル」、「異文化間能力」、「柔軟な能力」といった用語と関係した多くの特徴はこのキー・コンピテンシーは当てはまる。
「キー・コンピテンシーの定義と選択【概要】」(ドミニク・S・ライチェン ローラ・H・サルガニク編著 立田慶裕監訳「キー・コンピテンシー」(明石書店)より)
*********************

 「水泳の能力」を高めるためには、「水泳を行う活動」が必須条件であるように、「異質な集団で交流する能力」を高めるためには、「異質な集団で交流する活動」が必須であると思うのです。
  このキー・コンピテンシーは、さらに三つに分けられます。

*********************
2A:The ability to relate well to others(他人といい関係を作る能力)
2B:The ability to cooperate(協力する能力)
2C:The ability to manage and resolve conflicts(争いを処理し、解決する能力)
(「THE DEFINITION AND SELECTION OF KEY COMPETENCIES Executive Summary」)
*********************

 これから想起できる学習の姿は、何かの問題や課題を協同で解決するような学習でしょう。しかも、異なる意見を考慮しながら決定していくような場面が必要になりましょう。(つづく(^_^;))

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 5日 (火)

活用型学力とは何か8

【相互作用的に使用するって? Use tools Interactively】

 キーコンピテンシーの三つのカテゴリーの一つ「「道具」を相互作用的に使用できる能力(Use tools Interactively)」について考えていきます。「相互作用」は、カタカナでは「インタラクション」と記され、「interaction(英)」の訳語です。言葉をそのままに解釈すると「相互に影響を及ぼし合うこと」となります。こちらが、何かの行動をおこすと、相手から何かの反応が返ってくるといったことです。具体的には「対話」の場面がそうでしょう。ここ数年、「対話」が学習のキーワードになっていますが、人間は、内的な情報と外的な情報との相互作用によって思考するという「相互作用的思考論」に依拠したものです。
 このコンピテンシーは、さらに以下のように具体的に三つに分類されています。

****************************
コンピテンシー1A:言語、シンボル、テクストを相互作用的に用いる能力
 このキー・コンピテンシーは、さまざまな状況において、話して書くといった言語的なスキルや、コンピュータまたは図表を用いるといった他の数学的なスキルを有効に利用するものである。これは、社会や職場でよりよく働き、他の人々との効果的な対話に参加するための必須の道具である。「コミュニケーション能力」や「リテラシー」という用語は、このキー・コンピテンシーと関係する。
(中略・・・前田)
コンピテンシー1B:知識や情報を相互作用的に用いる能力
 このキー・コンピテンシーに必要なのは、情報そのものの性質、つまり、その技術的基盤や社会的、文化的、思想的な背景と影響についてのよく考える力である。情報能力は、選択肢の理解、意見の形成、意志決定や情報の基づき責任をもって行ういろいろな活動の基礎として必要なものなのである。
(中略・・・前田)
コンピテンシー1C:技術を相互作用的に用いる能力
 技術革新は職場の内外で新たな要求を個人に求めてきた。同時に、技術の進歩は、新しい違った手法でこうした要求に効果的に応じる新しい機会を人々に提供している。
 対話などの相互作用に技術を用いることは、新しい手法に気づくことを私たち個人に求めるだけでなく、その手法を通じて、毎日の生活に技術を活用できることを示している。
(後略・・・前田)
「キー・コンピテンシーの定義と選択【概要】」(ドミニク・S・ライチェン ローラ・H・サルガニク編著 立田慶裕監訳「キー・コンピテンシー」(明石書店)より)
****************************

 面白いのは、「言語・シンボル・テクスト」「知識や情報」「技術」を「道具」としているところです。これらの「道具」を相互作用的に使用する能力が求められていることになります。そう考えると、具体的な学習の場面が見えてくると思うのです。(ホントにすみませんが、まだ続きます。)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月 2日 (土)

活用型学力とは何か7

【「道具」を相互作用的に使用できる能力:Use tools Interactively】

 研究通信の1号から、ずっと「新学習指導要領の理念」に関する内容を取り上げています。学校現場は、多忙を極めていますので、どうしても「理念を具体化するための方法論」に関心がいきがちです。しかし、目標とする「理念」が正確に共有化されないままに「方法論」だけを学んでも、「なぜ、その方法が妥当だといえるのか。」という部分が理解されないままに進んでいきます。
 研究校にありがちなこととして、研究期間は、職員の間で「理念の共有」がなされているので「方法」の妥当性も理解されているのですが、研究期間が終了して職員が入れ替わっていくと、「理念」が薄れていき「方法」だけが残るいったことがあります。「○○タイム」のような「その学校独自の方法」が形骸化・劣化していくのは、そのためだと思います。逆に言えば、目標とする「理念」がしっかりと共有されていれば、「方法」は様々にあっていいのだと思っています。

 さて、話がカタクなってしまいましたが、キーコンピテンシーの三つのカテゴリーの一つ「「道具」を相互作用的に使用できる能力(Use tools Interactively)」について考えます。先に引用した「THE DEFINITION AND SELECTION OF KEY COMPETENCIES Executive Summary」を訳してある本を見つけましたので、引用してみます。

**************************
カテゴリー1 相互作用的に道具を用いる

 グローバルな経済や情報社会の社会的専門的な需要として求められているのは、コンピュータのような物理的な道具(tool)と同様に、言語、情報、知識といった相互作用のための社会文化的な道具の熟達である。
 相互作用的な道具の活用において求められているのは、(たとえば、文章を読む、ソフトウェアを使用するなどのように)それを使いこなすために必要な技術的なスキルとその道具を自由に使うこと以上のものである。人々には、知識や技術を創造し、応用することが期待されている。求められているのは、道具それ自体に親しむこととともに、人が世界と相互作用する方法を道具がどのように変化させるか、またいっそう大きな目標を達成するためにどのようにいつも使うことができるかを理解することである。この意味で、道具は、単なる受動的なメディア装置ではなく、その人の周りの環境とその人が積極的な対話を行う装置なのである。
「キー・コンピテンシーの定義と選択【概要】」(ドミニク・S・ライチェン ローラ・H・サルガニク編著 立田慶裕監訳「キー・コンピテンシー」(明石書店)より)
**************************

 「道具」とは、物理的な道具だけではなく、言語・情報・知識といった社会文化的な道具を示しており、それらは「自由に使うこと以上のもの」が求められているわけです。しかも、それらは「周りの環境と積極的な対話を行うもので」ある必要があるのです。(すみませんけど・・・・つづく・・・・。)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年4月30日 (木)

活用型学力とは何か6

【キーコンピテンシーって何なのだろう?】

 I先生から「研究通信出すのは大変でしょう。」と言われますが、そんなことはありません。そのほとんどが「引用」ですので、コピーアンドペーストです。自分の頭の中を整理するためにも、ちょうどよいのです。学級通信の方が大変だし、時間がかかります。

 さて、キーコピンテンシー(KEY COMPETENCIES)って何なのでしょう。KEYは「鍵になる」とか「重要な」「主要な」という意味があります。
 コンピテンス(COPETENCE)を英和辞書で調べると「能力」「力量」「適性」「手腕」「熟練」といった言葉が出てきます。どうやら、単純に「能力」だけではなさそうです。実は、コンピテンシー(COMPETENCY)の概念は、ハーバード大学教授のマクレランドが提唱したものです。

 1970年代に業績をあげる人とそうでない人との違いに興味を持ったマクレランドが高業績者(ハイパフォーマー)の特性を「コンピテンシー」と呼ぶことにした。
 (「コンピテンシーの正しい理解と使い方」 AGP行動科学分析研究所 所長 永井 隆雄
)
 (IT情報マネジメント http://www.atmarkit.co.jp/fbiz/cstaff/serial/competency/01/01.html)

 ですから、ビジネスの分野では、一般的にコンピテンシーは「高い業績を上げている人の行動特性」と定義されています。
 OECDは1997年から2003年にかけて、多くの国々の認知科学や評価の専門家、教育関係者などの協力を得てDeSeCo(デセコ)プロジェクトというものを組織しました。DeSeCo(Definition and Selection of Competenites)とは、国際的に共通する能力概念としてのキーコンピテンシーを理論的に定義付け、その評価と指標の枠組みを開発するプロジェクトです。
 DeSeCoは、「THE DEFINITION AND SELECTION OF KEY COMPETENCIES Executive Summary」という要約を公開しているので読むことができます。
 その中でキーコンピテンシーは3つに区分されています。
 
1、Use tools Interactively(「道具」を相互作用的に使用できる能力)
2、Interact in heterogeneous groups(異質な人々と相互に関わり合う能力)
3、Act autonomously(自律的に行動する能力)
(「THE DEFINITION AND SELECTION OF KEY COMPETENCIES Executive Summary」 訳:前田) 

 実は、ここに活用型学力形成のための授業づくりのヒントがあると私は思っているのです。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月29日 (水)

活用型学力とは何か5

【「知識基盤社会」に必要な能力とは何か?】

 中央教育審議会最終答申の「現行学習指導要領の理念」の中に以下のことが書かれています。
**************************
 すなわち、平成17年の中央教育審議会答申(「我が国の高等教育の将来像」)が指摘するとおり、21世紀は、新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増す、いわゆる「知識基盤社会」(knowledge-based society)の時代であると言われている。
 「知識基盤社会」の特質としては、例えば、①知識には国境がなく、グローバル化が一層進む、②知識は日進月歩であり、競争と技術革新が絶え間なく生まれる、③知識の進展は旧来のパラダイムの転換を伴うことが多く、幅広い知識と柔軟な思考力に基づく判断が一層重要になる、④性別や年齢を問わず参画することが促進される、などを挙げることができる。
(中略・前田)
 このような社会において、自己責任を果たし、他者と切磋琢磨しつつ一定の役割を果たすためには、基礎的・基本的な知識・技能の習得やそれらを活用して課題を見いだし、解決するための思考力・判断力・表現力等が必要である。しかも、知識・技能は、陳腐化しないよう常に更新する必要がある。生涯にわたって学ぶことが求められており、学校教育はそのための重要な基盤である。
(幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について(答申)p8)
**************************
 続けて答申は「共存・協力」「社会への貢献」の必要性や「自分自身を深めること」「開かれた個」の重要性を述べていますが、ここでは割愛します。さらに、答申は「次代を担う子どもたちに必要な力」を一言で示すとすれば、「生きる力」にほかならないと述べつつ、次のように主張しています。
**************************
 経済協力開発機構(OECD)は、 1997年から2003年にかけて、多くの国々の認知科学や評価の専門家、教育関係者などの協力を得て、「知識基盤社会」の時代を担う子どもたちに必要な能力を、「主要能力(キーコンピテンシー)」として定義付け、国際的に比較する調査を開始している。このような動きを受け、各国においては、学校の教育課程の国際的な通用性がこれまで以上に強く意識されるようになっているが、「生きる力」は、その内容のみならず、社会において子どもたちに必要となる力をまず明確にし、そこから教育の在り方を改善するという考え方において、この主要能力(キーコンピテンシー)という考え方を先取りしていたと言ってもよい。
**************************
 「生きる力」が漠然として分かりにくいものであったのに対して、キーコンピテンシーは具体的に定義づけられていそうです。では、キーコンピテンシーって何なのでしょうか。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月28日 (火)

活用型学力とは何か4

【OECDが、なぜ学力調査を行うのか?】
 なぜ、このような研究通信を書いているかと言いますと、学校の研究の具体的な取組がはじまるのが、6月になるからです。ですから、4月・5月の段階で、活用型学力に関する基礎的な知識を共有しておき、6月前半で具体的な方法論を提案していきたいと考えているからです。
 さて、OECDなのですが、OECD東京センターの「OECDの歴史」には以下のように書かれています。
***************************
•1948年、第二次世界大戦後の疲弊しきったヨーロッパ経済を活性化、救済させるために、アメリカ合衆国によるヨーロッパ復興支援計画を目的としているマーシャルプランの受け入れを整備する機関として、ヨーロッパ16か国が参加してOEEC(Organization for European Economic Co-operation=欧州経済協力機構)が設立された。
•1950年、アメリカ合衆国とカナダが準加盟国として参加。
•1961年、ヨーロッパ経済の復興に伴い、欧州と北米が自由主義経済や貿易で対等な関係として発展・協力を行う目的として、発展的に改組され、現在の経済協力開発機構(OECD)が創立された。
•1990年代に入り、冷戦構造が崩壊すると、かつてマーシャルプランの復興支援の対象として外れていた東欧諸国や新興工業国が加盟するようになり、今に至る。
***************************
 つまり、第二次世界大戦のヨーロッパの経済復興を目的として立ち上げられたものであり、現在は加盟国と中心とした世界経済の発展を目的としているわけです。そのOECDが、なぜ学力調査(PISA)をやるのでしょうか。国立教育政策研究所所長矢野重典氏は次のように述べています。
***************************
 今日、新しい時代に必要とされる知識を生涯にわたり獲得し、それを仕事や地域社会、個人の生活等で活用していく能力・技能を身に付けることは、知識基盤社会に対応する上で鍵となるという考え方が国際的な共通認識となっています。各国はこうした中で教育政策に取り組んでいますが、それぞれの教育においてどのような長所を伸ばしたら良いのか、あるいはどのような点を改善すべきかという点について示唆を与えてくれる客観的で信頼性の高いデータ・情報を必要としています。PISA調査はまさにこうした各国の政策的ニーズに応えるものであることから、2000年に実施された第1回目の調査以来、各国政府、専門家、マスコミ、学校関係者、保護者等の注目を集めるようになり、現在ではOECD非加盟国を含め約60カ国・地域が参加する世界規模の事業に成長しています。
 (国立教育政策研究所編「生きるための知識と技能2」(ぎょうせい))
***************************
 経済の発展のためには人材の育成が必要不可欠であり、そのための教育政策は国家の重要な課題となるからなのです。では、高めるべき「知識基盤社会に対応するための能力」とは何なのでしょう。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月23日 (木)

活用型学力とは何か2

 Y先生から「前田先生も顔文字を使われるのですね。と言われました (^o^)。パソコンや携帯の辞書で「かおもじ」で変換すると色々出てきます。たとえば、(^_^)、(*^_^*)、(T_T)、(-_-)などです。携帯電話のような文字だけの情報では、相手の表情が分からないので誤解を与えることが多いですよね。そもそも「研究通信」などといったカタイ文書は誰も読みたがらないので、あえてやわらかくしてみました。
 では、前回の続き。「3.で示した子どもたちの学力に関する各種の調査の結果」とは何なのでしょう。
 「中央教育審議会最終答申」では、国立教育政策研究所が教育課程実施状況調査によると「基礎的・基本的な知識・技能の習得を中心に一定の成果が認められる。」と述べている一方で、「他方、国語の記述式の問題の正答率が低下するなどの課題が見られた。」と述べられています。
 また、続いて次の文もあります。
****************************
○ 他方、平成15年(2003年)に実施された国際的な学力調査(OECDのPISA調査及び国際教育到達度評価学会(IEA)のTIMSS調査)の結果からは、我が国の子どもたちの学力は、全体としては国際的に上位にあるものの、
・読解力や記述式問題に課題があること、
・PISA調査の読解力の習熟度レベル別の生徒の割合において、前回調査(2000年)と比較して、成績中位層が減り、低位層が増加しているなど成績分布の分散が拡大していること、
などの低下傾向が見られた。
 平成18年(2006年)に実施されたPISA調査の結果においても、読解力及び数学的リテラシーで成績低位層が若干減少してはいるものの、2003年の同調査と同様の傾向が見られるとともに、OECD平均より高得点のグループである数学的リテラシーは、成績上位層の割合についても減少し、平均得点が低下している。また、科学的リテラシーにおいては、2003年の同調査との同一問題での比較では変化はなかったものの、科学への興味・関心や楽しさを感じる生徒の割合が全般的に低いなどの課題が改めて明らかになった。(平成20年1月17日 中央教育審議会最終答申p12〜p13)
****************************
 私は、こういう文書を読んでいると、分からなくなってしまいます。「PISAって何なの?どう読むの?」「TIMSS調査って何を調べるの?」といった疑問が沸いてくるからです。同答申では、PISAを次のように解説してあります。
****************************
Programme for International Student Assessment の略。「生徒の学習到達度調査」と訳される。OECD(経済協力開発機構)が実施。高等学校1年生を対象に、知識や技能等を実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかを評価する調査。
****************************
 これを読んで思ったことは、「そもそもOECDって何なのよ?」という疑問です。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月22日 (水)

活用型学力とは何か1

【今年度の研究通信から】
 昨年度の反省を生かす意味で、今年度は研究通信を不定期に発行することにしました。はりきりすぎると続かないので、ぼちぼちいきます。全然出ないときもあります。 (^o^)「おひまなときに読んで下さい。」と言いたいところですが、「おひま」は無いでしょうから、おひまがなくても読んで下さい。(^_^;)
 まずは、話題になっている活用型学力の意味について考えます。
 新学習指導要領の「第1章総則」に次の文章があります。
*******************
 学校の教育活動を進めるに当たっては,各学校において,児童に生きる力をはぐくむことを目指し,創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開する中で,基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力その他の能力をはぐくむとともに,主体的に学習に取り組む態度を養い,個性を生かす教育の充実に努めなければならない。その際,児童の発達の段階を考慮して,児童の言語活動を充実するとともに,家庭との連携を図りながら,児童の学習習慣が確立するよう配慮しなければならない。(平成20年2月 小学校学習指導要領p1総則)
*******************
 「習得」「活用」「言語活動」という言葉が新学習指導要領のキーワードになっているのは、このためです。では、なぜ、これらのことが重視されるようになってきたのか、中央教育審議会最終答申を引用してみます。
*******************
3.で示した子どもたちの学力に関する各種の調査の結果は、いずれも知識・技能の活用など思考力・判断力・表現力等に課題があることを示している。今回の改訂においては、各学校で子どもたちの思考力・判断力・表現力等を確実にはぐくむために、まず、各教科の指導の中で、基礎的・基本的な知識・技能の習得とともに、観察・実験やレポートの作成、論述といったそれぞれの教科の知識・技能を活用する学習活動を充実させることを重視する必要がある。各教科におけるこのような取組があってこそ総合的な学習の時間における教科等を横断した課題解決的な学習や探究的な活動も充実するし、各教科の知識・技能の確実な定着にも結び付く。このように、各教科での習得や活用と総合的な学習の時間を中心とした探究は、決して一つの方向で進むだけではなく、例えば、知識・技能の活用や探究がその習得を促進するなど、相互に関連し合って力を伸ばしていくものである。 (平成20年1月17日 中央教育審議会最終答申p24)
*******************
 この答申を読んでみると、「活用型の学習」は教科の指導の中で行うことが述べられています。また、「習得」と「活用」と「探究」という三つの学習が、ばらばらに成立するものではなく、相互に関連していることが分かります。つまり、活用型の学習活動を充実させることによって、探究的な学習活動も充実するし、知識・技能の習得に結びつくというわけです。そう考えると、「活用型の学習」は、単に「習得された知識や技能」を使えばよいというわけではなく、総合的な学習のような「探究型の学習」の充実を目指したものでなくてはならないことが分かります。
 では、「3.で示した子どもたちの学力に関する各種の調査の結果」とは何なのでしょう。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月15日 (木)

「授業の準備の時間」を確保する 9

【ポジティブリスト】
 苅谷剛彦さんの本の中で、しばしば登場するのが「ポジティブリスト」という言葉である。「いいと思うもの」をどんどん挙げてリストに付け加えていくという発想だ。「こんなふうに、できたらいいな」ということを次々に書いてリストに加えていくと、理想的な教育ができるというわけである。
 総合的な学習や小学校英語活動のように新しく加わるものもであれば、情報教育、キャリア教育、食育などのように、どこかの時間帯に上手に組み入れていかなければならないものもある。

 何かを加えるためには、準備などのコストがかかる。しかし、そのコストは保障されないので、そのまま教育現場の多忙感が増していくことになる。だから、本当はどこかを削らなくてはならないのだが、その一つ一つの取組は「いいと思うもの」なので、簡単には削られない。

 というわけで、教育現場は「いいと思うもの」がどんどん増えていくことになる。この問題を解決するためにはどうしたらよいのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月13日 (火)

「授業の準備の時間」を確保する 8

 1月10日にD-project(デジタル表現研究会)のセミナーが札幌で開催された。私は、CM制作のワークショップの講師として参加させていただいた。
 ワークショップの目的は、CM制作を通して「映像と言語の特性を理解し、授業に活用する」ということである。つまり、CM制作は方法であって目的ではない。
 参加者の皆さんから様々なアイデアをいただき、私自身も大変刺激を受けた。
 素晴らしいことの一つは、その様子をその日のうちに、WEBサイトにまとめて発信してあることである。北海道のD-projectの意欲が伝わってくる。
 講師も含めて参加者全員が、それぞれに学びあえるところが自主的な研究会の良さだと思う。これは、学校外での「教師の協同」である。

 さて、地域のことを考えてみると、最近はどの教科教育研究会も若い教師の参加者が少ないという。私が参加している図工・美術教育研究会も同様である。運営をしているのは、すでに40代の教師が中心となっている。教科によっては、実質的な活動が停止してしまっているところもある。
 私自身、20代のときに、土曜日の午後からの教科教育研究会のサークル活動などに参加して、様々なことを先輩教師から吸収していった経験がある。そのような自主的な教師の研修の場が現在少なくなってきている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月12日 (月)

「授業の準備の時間」を確保する 7

 石井竜生著「先生の集団逃亡が始まった」(清流出版)という本がある。日本の教師をかなり辛辣に批判した本だ。
 あれこれと対応策が練られているにも関わらず、教育の荒廃が止まらないことを指摘しながら、石井氏は次のように述べる。
********************************************
 「その最大の原因は、どのような教育改革論も、教師の力の買いかぶりの上にたって、現場に丸投げされているからだと思う。ゆとり教育、総合学習、英語教育などは、現場で指導する先生たちの実力に創意工夫がくわわって、はじめて成り立つ目標だ。
 ところが、現実はというと、先生たちは〝勉強が嫌い〟なのである。したがって、マニュアルが不備で、自分で創意工夫するしかない授業など、注文すること自体が無理なのだ。
 『先生の実力って、かなり低いですよ』」
            石井竜生著「先生の集団逃亡が始まった」(清流出版)
********************************************
 石井氏は、学校の警備員をやりながら体験したトンデモナイ事例を挙げている。読んでいて悲しくなるが、頷ける部分もないことはない。

 考えてみれば、教師は大学を卒業したらすぐに「先生」と呼ばれ、一人前の職業人として扱われる。教科書の指導書と教育雑誌・教育書を読むことだけが「授業の準備」だと考えていれば、教師の知的レベルは大学卒業と同程度か、それ以下になるだろう。

 私が中学生時代に、尊敬していた社会科の先生がいた。田中裕一先生という。中学1年の歴史の授業の第1時間目に、自分で復元させたという古代中国の磁器を見せてくれた。かけらを一つ一つ接着剤でつなぎながら、元の状態にしたという。その青白く光る小さな物体は神秘的であり、歴史を身近に感じたことを覚えている。
 田中先生の発言の一つ一つが知的で面白かった。しっかりした知識の上で歴史を語っているのが中学生でも分かった。後で分かったことなのだが、田中先生は社会科の実践研究で有名な教師であった。田中先生に教えてもらったことは、非常に幸運だったと今でも思っている。その先生は他界されたが、和井田清司氏が人文学会雑誌で「未完の教師修業」として田中先生のことについてまとめて下さっている。

 いかに「放課後の時間」が増えても、教師側に知的好奇心や向上心がなければ授業力の向上は望めないだろう。そのことをふまえた上で「授業の準備の時間の確保」を主張したい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月11日 (日)

「授業の準備の時間」を確保する 6

 定年を迎えないまま50代で退職をする教師が増えているという。たしかに、私の周囲にも少なくない。
 考えてみれば、明日の授業の準備に追いまくられ、生徒指導と保護者対応に時間を奪われていれば、「人間としての自分」を高める時間的余裕はないだろう。それに加えて、教える内容が増えていくとなれば、もう追いつかないと感じるのも理解できるように感じる。目前の授業をこなす方法だけは身についていても、人間としての知性や教養も乏しくなっている自分に気づいて愕然となってしまうのではないだろうか。そう考えてみると、50代になって自分のこれからの人生を考え、教壇を降り自分の内実を充実させていこうとする姿勢は、むしろ前向きに「自分の人生」を考えている証しとも言えよう。

 しかし、教育界全体から見れば、50代のベテラン教師が退職していくことは、大きな損失であると感じる。なぜならば、日本の教師の成長は教師同士の協同性に支えられているからである。
 私が教師になった20数年前は、先輩の教師から様々なことを教えてもらった。チョークの使い方を当時の教務主任から教えてもらったことを昨日のことのように覚えている。(授業の重要な要素である『板書』の方法について、教員養成系の大学はどれだけ指導できるだろうか?)
 そのためには、昼休みや夕方の「ちょっとした時間」が私には重要だった。分からないことや悩んだことは、その時間帯に先輩教師に尋ねにいったからだ。「帰りの会」の方法で悩んだとき、50代の先輩女性教師に「先生の学級の帰りの会を見せて下さい」と頼んだら、快く引き受けてくれた。こうしたことも鮮明に覚えている。

 もし、こうした「協同して学ぶ時間」も少なくなってくれば、日本の教師の授業力はどうなるのだろう。10年に1度の「教員免許更新制度」によって教員の資質は向上するのだろうか。我々の仲間たちはどう考えているのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月 8日 (木)

「授業の準備の時間」を確保する 5

 私は「授業の準備の時間が不足する」という不平不満を述べようとしているのではない。そのようなことをしても意味がないからだ。
 ここでは三つのことを考えたい。
 一つ目は、授業の準備のために教師は何をするべきかということ。
 二つ目は、それぞれの教育政策は、そもそもどんな意味があるのかということ。
 三つ目は、具体的に何をするべきかということ。

 二つ目を考えるときに参考になるのが教育社会学関連の書籍である。私自身は書評を書くのは苦手であるが、いくつかの書籍を掲載させていただく。

○苅谷剛彦著「教育再生の迷走」(筑摩書房)
 教育再生会議から教育問題・学力調査などの問題点を指摘している本として興味深かった。特に最終章の「迷走する教育改革」は必読だと思う。

○藤田英典著「義務教育を問いなおす」(ちくま新書)
 ここ数年の教育改革プランの矛盾点を指摘しながら、義務教育のあり方を提言している。「学力低下論」についての著者の解釈には、共感するところが多かった。

苅谷剛彦+益田ユリヤ著「欲ばり過ぎるニッポンの教育」(講談社現代新書)
 フィンランドの教育との比較がなされているが、面白いのは日本の教育制度の良さも指摘しているところだ。

(つづく)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年1月 7日 (水)

「授業の準備の時間」を確保する 4

 私があえて「授業の『準備』の時間」と書いたのは、「授業には準備が必要である」という当然のことを主張したいためである。一般的に「研修」とよばれる時間は、教材研究に直接役立つためのものである。これはこれで絶対必要なのであるが、授業には「直接役立たないこと」も必要なのだと思う。

 授業は、教師と子どもたちでつくる創造的な営みだ。ある決められた「方法」があって、それを上手にこなせばよいというものではない気がする。もちろん、そういう場面もあるが、それではあまりにも面白くない。
 教師には創造性が必要なのだと思う。授業の中身を一生懸命に考えている時間が私にとっては至福の時間である。そのためには、専門性も高めながらも、人間としての総合力のようなものも必要だと感じる。

 昨年12月の教育委員会の学校訪問があった。私は図工の授業を指導主事の先生に見てもらった。授業の導入の5分間で名画を見せることにした。そこで、どの画家の名画を見せるべきか、かなり迷った。指導案そのものは1ヶ月前にはできていたのであるが、授業前日まで悩みぬいた。子どもたちが描くのは想像画である。この導入の時間は、子どもたちが「ぼくたちも画家も同じなんだ」と実感できるような時間にしたかった。
 候補にあげた画家は、ミロとクレーとマチス。結局、前日にクレーに決定した。結果としては成功だった。子どもたちはクレーの絵に興味を示して、多くの感想を述べることができた。指導主事の先生からは「よくぞクレーを選びました。」とお褒めの言葉をいただいたので、苦労が報われた気がした。
 たった5分間の導入のために一ヶ月も悩んだことになる。
 だが、振り返ってみれば、授業を構想する段階において様々な絵画を見るという経験が教師側になければ、「名画を見せる」という発想もなかったはずである。資料になったのは、1990年に定期的に購入していた週間グレートアーティストという雑誌であった。今から18年も前のものだ。ゴッホやピカソといった一般の人にも知られている画家以外にも様々な画家の作品を紹介しているものである。当時は、ぱらぱらと眺めていただけなのであるが、18年後、結果として授業の発想に役立っている。

 教師が、直前にせまる授業のために「誰かがすでに考案したうまい方法」を習得することだけに没頭するようになれば、専門性は高まるのかもしれないが、なんとも薄っぺらい人間になってしまうような気がしてならない。自分の創造性を活かしながら一生懸命に様々なことに興味をもって吸収していく姿勢が、結果として子どもたちに良い影響を与えていくのではないだろうか。(つづく)
 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年1月 6日 (火)

「授業の準備の時間」を確保する 3

 「授業の準備の時間」といってもやることは色々ある。私は、大きく三つに分けている。
 まず一つ目は、直接授業に必要な準備である。たとえば、発問・指示を考えたり、ワークシートを作成したりすることだ。教師にとっては絶対必要な「教材研究の時間」である。
 二つ目は、授業を振り返ることである。たとえば、授業の記録をとったり、反省点をメモしたりすることである。「省察の時間」とでも言えるだろう。これがないと、授業はやりっぱなしで終わる。
 三つ目は、授業には直接は役立たないが、授業を構想するための土台となるような知識を得るようなことだ。旅行したり人に会ったり本を読んだりすることも含まれる。良質の音楽や絵画に触れることもそうだ。「教養の時間」とでも言えばいいだろうか。

 「授業の準備の時間」が減れば、この三つのうちのどれかが減ることになる。「教材研究」の時間は実質的に減らせないので、「省察の時間」と「教養の時間」を減らすことになる。これは、大きい。省察や教養は極めて重要だからである。これがないと、授業の準備は、方法論のみに終始してしまうことになりかねない。「明日の授業を何とかこなす方法」だけが身についてしまって、そもそも「その方法は妥当なのか」ということが検討されていかない。間違った方法であることに気づかずに、授業をすすめる危険性が高いのである。

 教師は給料や肩書きを得るために動いているのではない。授業という「仕事」に対する充実感を得るために動く。授業を充実させるためには身銭を切って学ぶ。
 だから、授業を充実させるために必要な時間は「資源」なのである。この意識が働かないと、日本の教師は多忙化の渦の中で授業に必要な力を失っていくことになるだろう。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年1月 5日 (月)

「授業の準備の時間」を確保する 2

 以前、アメリカの小学校とオーストラリアの小学校を視察したことがある。日本の小学校と大きく異なったのは、給食と掃除である。アメリカもオーストラリアもそれぞれの子どもたちが自分たちで昼食をとっていた。学校内にあるカフェテリアで食べる子どももいれば、弁当をもってくる子どももいた。教師はスタッフルームでそれぞれに昼食をとる。
 掃除はない。掃除を行う業者が担当する。

 したがって、お昼休みが終わったら、すぐに午後の授業が始まる。午後3時には全ての授業が終わって、スクールバスで子どもたちは一斉に下校する。(もっとも、アメリカは地域や学校ごとに事情は異なる。)
 午後3時以降が「授業の準備の時間」となる。

 日本の場合は、給食指導、掃除指導が加わる。部活動を担当している教師はそれに部活指導も加わる。しばしば、授業時数の国際比較のグラフを見かけるが、これには「給食指導」も「掃除指導」もカウントされていない。

 私は、「給食指導」や「掃除指導」が必要ではないと言っているのではない。時間をコストとして考えないと、授業は充実しないということだ。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月 4日 (日)

「授業の準備の時間」を確保する 1

 新しい学習指導要領では、現在よりも授業時数が増える。単純に計算しても、低学年で週2コマ程度、中高学年で週1コマ程度の授業時間が増える。
 「授業時間」が増えるということは、その増えた分の「授業の準備の時間」も増やさなければならないはずである。ところが、全体の時間は変わらないので、「授業の時間」が増えた分だけ「授業の準備の時間」は減ることになる。これは矛盾している。

 授業のためには準備の時間が必要だ。おそらくほとんどの教師は勤務時間以外にやっているはずである。自宅に持ち帰るのは当たり前で、場合によっては休日もその時間にあてていることが多いだろう。
 私がブログで授業についての「振り返り」を記録しているのは次の授業を充実させるためである。これもまた「授業の準備の時間」であり、それなりに時間がかかる。

 授業の準備が十分にできていないと、授業は不十分なものになる。子どもたちにとっては満足感の足りない授業となり、教師にとっても充実感が乏しいものとなってストレスはたまる。
 授業数をいかに増やしたところで、一つ一つの授業が充実していなければ、教育効果は極めて薄いものになる。総合的な学習などは形骸化してしまうだろう。

 現在、私は自宅から学校までの往復通勤時間が2時間近くかかってしまう。だから、10分でも20分でも貴重である。個々の教師の努力だけではどうにも解決できない問題ではないだろうか。どうして日課表の中に「授業の準備の時間」というものを位置づけないのであろう。

 新学習指導要領が完全実施されたときに、何らかの手をうたなければ、学校はますます多忙を極めることになるはずだ。「時間確保」を研究テーマにする学校や教師は存在しないのだろうか。(つづく)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年9月 3日 (水)

読売新聞・教育ルネサンス

 読売新聞の「教育ルネサンス」。
 「教師力」の連載記事の取材を受けた。

 取材をされた記者の方からは、「何かと不祥事ばかりを取り上げられて批判されている教育現場に元気になってほしい。教師のがんばりをピックアップしたい。」という願いを感じた。
 そう思うと、このような形で紹介されるのは、大変ありがたいことだ。

 私には「教師力」などいう大げさなものは無いに等しい。いくつになっても、自分の授業はダメだと思っている。今でも放課後は反省の毎日である。だから、よけいに悔しいとも思う。逆に、授業がうまくいったとき(滅多にないが・・・)は、非常にうれしい。この気持ちはずっと変わらない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年8月22日 (金)

岡原小学校の校内研を終えて

 あさぎり町立岡原小学校の校内研に招聘された。いつになくものすごく緊張してしまった。
 しかし、職員の先生方から「英語のイラストカードを使っています。」「先生の本をもっています。」などと声をかけていただいて大変感激してしまった。このような学校でお話をさせていただくことは大変光栄なことであり、幸せなことだと思う。心よりありがたいことだと感じた。

 帰りは研究主任の先生にインターチェンジまでわざわざ送っていただいた。車中で「どうやって新しい授業を創られるのですか?」と質問を受けて、答えに窮してしまった。「同じことをやりたくないから。」といった内容の返答をしてしまったが、自分でも納得がいかないので、帰り道で考えてみた。

 コミュニケーションを「互いの間に意味を生み出すこと」と定義すれば、授業もまたコミュニケーションと言える。子どもと子ども、教師と子どもの間で意味が生み出される活動であるからだ。
 そう考えると、授業とは「教師が何かを上手に伝える行為」ではなく、「教室の全員が意味を生み出していく行為」と言えるかもしれない。
 私にとっては、授業は「武道」や「書道」のようなものではなく、どちらかといえば演劇やコンサートなどの「芸術」に近いものに感じる。(だから、「段位」はぴんとこない。)オーケストラの楽器演奏者のそれぞれの個性が入り交じりひびきあい、それがまた観客を感動させていく。教師は指揮者のような存在なのかもしれない。
 芸術では、技能だけではなく、創造性も要求される。常に新しい何かを創り出そうとしていくエネルギーが教育にも必要なのである。過去に「うまくいった方法」を再現してやってみると、今ひとつ盛り上がりに欠けることは多い。むしろ、うまくいくか分からないが、ぎりぎりまで考えてやった授業の方ががうまくいくことが多い。
 だから、いつも新しい授業を考えているのだと思う。過去にうまくいった方法も繰り返さない。どこか変えてやってみる方が楽しい。だから、授業の記録はできるだけ正確にとっておく。そして、自分の知識・技能と他の方法をあれこれと組み合わせて考えていく。このようなことをわくわくして考えながら授業を創っている。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年8月 1日 (金)

キーコンピテンシー 3

3、Act autonomously

というのは、けっこう難しい。autonomouslyは、「自立的な、自主的な」という意味をもつ。
 直訳すると「自立的に行動する能力」ということになるだろう。

 さらに、この能力は三つの内容で示されている。
A. Act within the big picture
B. Form and conduct life plans and personal projects
C. Defend and assert rights, interests, limits and needs

A. 大きな全体像を描いて行動する能力
B. 人生と個人プロジェクトの計画を立て実施する能力
C. 自分の権利、興味、限界、必要性を守り、主張する能力
(訳:前田)

 自分自身の主張を明確にしながら人生を設計し、全体像を見据えながら行動する能力とでもいえばよいだろうか。これは、日本人には難しいかもしれない。
 「生きる力」の言葉を借りるならば、「自己の生き方を考える」ということになるだろうか。中川一史先生が提案する「メディア創造力」の中の「自己を見つめ、切り拓いていく力」ということになるだろう。
 基本的には学習活動の中で「自分の考えはどうなのだろう。」「自分は、これからどう行動すればよいのだろう。」ということを考えさせることが必要なのだろう。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年7月30日 (水)

キーコンピテンシー 2

 2、Interact in heterogeneous groups

というのも面白い。heterogeneousとは「異種の, 異質」のという意味である。つまり、直訳すると「異質な人々と相互に関わり合う能力」ということになる。
 さらに、この能力は三つの内容で示されている。

A. Relate well to others
B. Co-operate, work in teams
C. Manage and resolve conflicts

A.他者と上手にかかわりあう能力
B.チームで協力して仕事を遂行する能力
C.対立を解決し運営していく能力
(訳:前田)

 DeSeCoは、国際的に共通する能力概念として、「考えが異なる他者と上手にかかわりあっていく能力」を主張しているのである。
 だとすれば、子どもたちがチームで協同して問題を解決していくような学習活動が適している。しかも、問題を解決するだけではなく、協同作業を効果的にすすめるための活動そのものも高めていくような学習が望まれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月29日 (火)

ワークショップ連続

 宮崎大学でワークショップを行った。日向教育サークルの鈴木健二先生からの招聘である。

 午前8時スタッフ集合

 午前9時 開会
 午前9時〜午前9時20分 オリエンテーション:授業実践「アップとルーズ」

 スライドショー作成テーマ「宮崎大学のいいところを伝えよう」

 午前9時20分〜午前9時50分 宮崎大学の中をデジカメで撮影する
 午前9時50分〜午前10時20分 写真をパソコンに取り込んで選択する
 午前10時20分〜午前11時 大まかなストーリーを決定して各自原稿を書く
 午前11時〜正午 原稿を一つにまとめて、スライドショーを作成する
 正午〜午後12時30分 作品発表会とコメント

 昼食

 午後1時30分〜午後2時20分 プロジェクト型協同学習 土台編
 午後2時30分〜午後3時20分 プロジェクト型協同学習 入門編
 午後3時30分〜午後4時20分 プロジェクト型協同学習 実践編

 午後4時30分 閉会

 午前中が20名程度、午後が50名程度の参加。
 デジタル表現の経験者が0、マックユーザーが0というワークショップであったが、いい雰囲気の会となった。
 デジカメの映像がパソコンが簡単に取り込めたり、音楽やナレーションが簡単に取り込めたりするのを参加者が体験するたびに、「おーっ!おもしろい!」「簡単なんだ!」という声が聞こえてきた。
 ICTの専門家ではない人たちばかりだったの、今までにない雰囲気で私も楽しくワークショップを行うことができた。

 これからワークショップが連続する。熊本に帰るのは2週間後である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月28日 (月)

キーコンピテンシー

 中央教育審議会は次のように述べる。

「経済協力開発機構(OECD)は、1997年から2003年にかけて、多くの国々の認知科学や評価の専門家、教育関係者などの協力を得て、「知識基盤社会」の時代を担う子どもたちに必要な能力を、「主要能力(キーコンピテンシー)」として定義付け、国際的に比較する調査を開始している。」

 そのキーコンピテンシーとは何だろう。

 OECDにはDeSeCoプロジェクトというものがある。
 DeSeCo(Definition and Selection of Competenites)とは、国際的に共通する能力概念としてのキーコンピテンシーを理論的に定義付け、その評価と指標の枠組みを開発するプロジェクトである。
 DeSeCo の主張はキーコンピテンシーを3つに区分しているところだ。
 
THE DEFINITION AND SELECTION OF KEY COMPETENCIES Executive Summaryは公開されているので読むことができる。

 その3つとは
1、Use tools Interactively
2、Interact in heterogeneous groups
3、Act autonomously

 この3つが示す意味を考えるとけっこう面白い。たとえば、1、Use tools Interactivelyの内容はさらに3つに示されている。

A. Use language, symbols and texts interactively
B. Use knowledge and information interactively
C. Use technology interactively

 これは、まさに、言語、記号とテキスト、知識と情報、情報通信技術などの「道具」を双方向的に使用できる能力を指すものだ。
 キーコンピテンシーは、新学習指導要領のバックボーンとなっているのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月20日 (日)

教室環境を改善するためのメモ

 一学期が終了した。3年ぶりの学級担任であり,9年ぶりの3年生担任ということもあって,慣れないことも多く,反省点が山積みとなった。特に,教室環境に関しては忘れないうちに記録しておいて,夏休み中に改善しておきたいと思う。
1)ICTの環境
 9年前に3年生を受け持ったときとあきらかに異なるのは,プロジェクター等のICT環境である。今ではLANも教室に配備されている。この一学期はどの程度使用できるのか,試行錯誤しながらやっていた。パソコンを教室の右に置くか左に置くかでも,ずいぶんと使い勝手は違うものだ。
 結果としては,予想をはるかに超えて,ICTの使用頻度は高かった。
 国語や算数は,毎時間,教科書の投影を行った。算数や社会などは,子どもたちのノートを実物投影機で映し出せる。また,理科では昆虫の実物など拡大して見せることができた。道徳や理科では,NHKの教育放送を見せることができた。テストの答え合わせなどにもプロジェクターは大活躍であった。
 しかし,パソコンと実物投影機をいっしょに置くと場所をとってしまう。プロジェクターの接続などにも時間がかかった。そこで,2学期からは,不要になっている大きな机に実物投影とパソコンを常設できるようにしたい。しかも,その机はキャスターつきなので移動も楽である。また,電源ケーブルやプロジェクタなどのケーブルも全て,ホームセンターなどで販売されているコードカバーを取り付けることにする。
 たかが,それだけのことではあるが,いつでもすぐに使えるメリットは大きい。
2)プリント類の整理
 ひさしぶりの学級担任で,配布するべきプリントと回収するべきプリントの多さに驚いた。下手をすると机上はプリントの山となる。そこで,棚を設置することにする。学校では,まだB4の大きさは使われる。そこで,B4の棚を所定の場所において,配布するべきプリントはすべてそこに置くようにしたい。また,回収するべきプリントは,書類整理ボックスを使用したい。100円ショップなどのもので十分であろう。宿題などは,名簿ごとに提出する場所を決めておいて,そこに出させるようにする。そうすると,誰が出して誰が出していないかが一目瞭然となる。
3)掲示用模造紙の活用
 スクリーンは便利ではあるが,模造紙の方が簡単な場面も多い。私の学校では「今月の歌」を全教室で毎朝練習することになる。歌詞のようなものは,むしろ模造紙の方が見やすいだろう。そこで,子どもたちが歌えるものは,模造紙に書いておき,すぐに取り出して歌えるようにしたい。ギターコードも小さく書き込んでおけば,ギターの伴奏も楽にできる。

 教室環境は極めて小さなことなのだが,整理された環境であれば授業の効率はぐんと上がると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月10日 (木)

総合的な学習を考える2

 前任校では1学期の総合的な学習として「情報ミニプロジェクト単元」というものを行っていた。これは,10時間程度の短い単元を通して,情報活用のためのスキルとプロジェクト学習の流れをつかませることをねらいとしていた。
 たとえば,3年生は「友達紹介ポスターセッション」,4年生は,「友達紹介プレゼンテーション」というものを行う。男女がペアになって,それぞれの長所を保護者に紹介をするというものである。5年生は「学校紹介ホームページ制作」。6年生は「英会話番組制作」を行う。

 この1学期のミニプロジェクトが終了したら,2学期から本格的な「探求活動」に入っていく。
 このような「ミニプロジェクト単元」には,かなりメリットが多かったように思う。まず,新しい学年を受け持った学級担任にとっては,総合的な学習を組み立てるための準備がとりにくい。1学期にミニプロジェクトがもうけてあると,まずは,その指導に力を入れられる。また,教師にとってもプロジェクト学習の流れをつかむことができる。

 そうすると,2学期以降の総合的な学習については,夏休み中にかなり準備ができることになる。学習のデザインも行いやすいはずだ。

 もちろん,ミニプロジェクト単元も改良の余地がある。一つは,教科の学習内容とのリンク。二つ目は,2学期以降の探求活動とのリンクである。つまり,一学期の教科の内容と絡めたプロジェクトにしながら,技能面では探求活動に絡めるようにするわけである。
 たとえば,3年生では,国語科で学習した「段落を意識して,何かを紹介する作文」を活かせるようなミニプロジェクト単元にしていくといったものである。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 9日 (水)

総合的な学習を考える1

 文部科学省のサイトに小学校学習指導要領解説が発表されている。
 興味があるのは、総合的な学習の解説だ。
 「2 内容の取り扱いの改善」として以下の三つが述べられている。この部分は、今後の総合的な学習を考えていく上で重要なところになるはずだ。学校の指導計画は、一度決められてしまうと改善することが難しい。探求活動として成立しているのか? 単なる体験活動になっていないか? 言語活動は充実しているのか?といったチェックをしていく必要があるはずである。

****************************
(1)探究的な学習としての充実
 総合的な学習の時間については,自ら学び自ら考える力などの「生きる力」をはぐくむために,既存の教科等の枠を超えた横断的・総合的な学習となることを目指して実施されてきた。
 今回の改訂では,このことに加えて探究的な学習となることを目指している。基礎的・基本的な知識・技能の定着やこれらを活用する学習活動は,教科で行うことを前提に,総合的な学習の時間においては,体験的な学習に配慮しつつ探究的な学習となるよう充実を図ることが求められている。すなわち,総合的な学習の時間と各教科等との役割分担を明らかにし,総合的な学習の時間では探究的な学習としての充実を目指している。このことについては目標において明示するとともに,内容の取扱いにお
いても「探究的な学習」「探究活動」「問題の解決や探究活動の過程」などとして複数箇所に示している。
 学習活動の例として示されている国際理解や情報に関する学習を行う際にも,「問題の解決や探究活動に取り組むことを通して」と示し,体験活動だけで終わることや知識・技能を一方的に教え込むだけの学習活動ではないことを明確にしている。

(2)学校間の取組状況の違いと学校段階間の取組の重複
 総合的な学習の時間の課題として,学校間の取組の実態に差がある状況や学校段階間の取組が重複していることが挙げられる。学校間の取組の状況に違いがあることを改善するために,総合的な学習の時間において育てようとする資質や能力及び態度の視点を例示することとした。例示する視点としては,「学習方法に関すること,自分自身に関すること,他者や社会とのかかわりに関することなど」とした。このことにより,各学校において設定する育てようとする資質や能力及び態度が一層明確になる
とを目指した。
 合わせて,学校段階間の取組の重複を改善するために,学校段階間の学習活動の例示を見直した。従前から示されていた学習活動は,「例えば国際理解,情報,環境,福祉・健康などの横断的・総合的な課題,児童の興味・関心に基づく課題,地域や学校の特色に応じた課題などについて,学校の実態に応じた学習活動を行うものとする」とされていた。今回の改訂では,これに加えて,小学校では「地域の人々の暮らし,文化と伝統に関する学習活動」,中学校では「職業や自己の将来に関する学習活動」を例示として加える。これらのことによって,各学校段階における児童・生徒の発達に応じた適切な学習活動が展開されることを目指した。

(3)体験活動と言語活動の充実
 総合的な学習の時間においては,従前と同様に体験活動を行うことを重視し,積極的に学習活動に取り入れることとしている。例えば,小学校における自然体験活動や中学校の職場体験活動,高等学校の就業体験活動や奉仕体験活動などである。
 しかし,体験活動がそれだけで終わるのではなく,体験活動を行うことによって児童の学習を一層充実したものとすることが求められている。そのために,内容の取扱いにおいて,「体験活動については,第1の目標並びに第2の各学校において定める目標及び内容を踏まえ,問題の解決や探究活動の過程に適切に位置付けること」とした。さらに,「問題の解決や探究活動の過程においては,他者と協同して問題を解決しようとする学習活動や,言語により分析し,まとめたり表現したりするなどの学習
活動が行われるようにすること」を示した。これは,互いに教え合い学び合う活動や地域の人との意見交換や交流活動など,他者と協同して課題を解決しようとする学習活動を重視することを意味する。また,言語により整理したり分析したりして考え,それをまとめたり表現したりして自分の考えを深める学習活動を重視するものである。このように,体験活動と言語活動を共に充実させることが,総合的な学習の時間の充実においては欠かせないのである。

 ここまで述べてきたように,今回の改訂では,国が示す目標を踏まえ,具体的な目標や内容は,各学校において定めることを明確にした。このようなことから,各学校においては,教育委員会の指導の下,総合的な学習の時間の目標を踏まえた適切な学習活動が行われるよう,校長を中心に学校全体として組織的に取り組み,指導計画や指導体制,実施状況について,点検・評価することが求められる。

(文部科学省:小学校学習指導要領解説 総合的な学習編 より)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月14日 (土)

ネットにつないで講演を聞く

 先日、地域の研修会で教育講演会が行われた。場所は中学校の体育館。
 私はできるだけノートパソコンに講演を記録することにしているが、今回は、E-Mobileのデータ通信でWEBにつないだ状態で記録をとった。USBモデムタイプのD02HWだと、極めて高速につながる。
 講演の前に、Googleで講師の先生の所属や略歴を調べてみる。その先生の主張などを前もって知ることができると、興味が高くなる。
 また、ちょっと専門的な言葉で出てきたら、 Wilkipedia等で調べてみると、本来の意味が分かる。また、講師の先生とは異なった意見を知ることができる。
 つまり、講演の記録をとりながら同時に調べることを行うわけである。これを行うと、がぜん面白くなる。
 従来は講演の記録をとることに力点を置いたのだが、この方法で講演を聞くと、かなり考えながら話を聞くことができる。
 これはオススメだと思う。
 (もちろん、講師の先生に知られないことが前提になるが・・・・。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月10日 (木)

3年学級担任へ

 平成20年度は、学級担任をさせてもらうことになった。学級担任は三年ぶりであり、3年担任は十年ぶりである。

 4月6日(日)午前中、教科書に一通り目を通した。特に音楽に関して、合唱曲などのMIDIデータをダウンロードしてみた。ガレージバンドというマックのソフトは無料だが、MIDIデータを読み込んで演奏させることが可能だ。音程や速さを変えたり、音色を変えたりできる。これは使えそうだ。

 4月8日(火)始業式。子どもたちも私も緊張。子どもたちにとって、私はこわく見えるらしい。学級通信に「先生の自己紹介」として次のように書いて読み上げた。
**********************
 私は、こういう人です。
 名前は前田康裕(まえだやすひろ)です。
 すきなことは、絵をかくことです。ギターをひくこともすきです。
 とくぎは、じゅうどうです。黒おびです。
 パソコンをつかってじゅぎょうをすることもあります。
 家ぞくは6人です。おくさんとおくさんのお父さんとお母さん。
 それから、高校3年生のむすめと、中学3年生のむすこがいます。
 にがてなことは、夜おそくまでおきていることです。いつも9時すぎにはねてしまいます。
 どうぞよろしくおねがいします。
**********************
 また、教室でイラストを描いてみせたり、ギターを弾いてみせたりした。「上手」「すごーい」といった子どもたちの反応がうれしい。
 あえて原稿用紙を配布して、「先生の自己紹介」を読みながら、自分の自己紹介を文章で書くように指示した。次の日に、自己紹介スピーチをするためである。
 子どもたちが作文を書いている間に、名簿順に一人一人よんで、デジカメで写真を撮影する。一枚は大きな名札をもたせて、もう一枚は、笑顔の写真である。名札の写真は、名前と顔を覚えるためのものである。笑顔は、自己紹介カードや学級懇談会など様々な場面で使える。
 宿題として、作文をしあげてスピーチの練習をしておくように指示。最後は、「さよならジャンケン」で終わり。

4月9日(水)
 始業前に、子どもたちの顔と名前を全て覚えてしまう。
 1時間目は国語。子どもたちの自己紹介スピーチだ。一人一人をビデオカメラで録画する。「スピーチ力」の実態を把握をするためである。
 また、宿題の原稿用紙は回収。これも子どもたちの「書く力」を把握するためである。まずは、子どもたちの実態を記録して把握しておかなければ、指導に活かせない。
 残りの時間は「どんな学級にしたいか?」を話し合ったり、給食当番、係の仕事、掃除分担などを決めていった。久しぶりの担任の仕事である。
 私にとっては、今の学校でのはじめての担任なので、給食や掃除のシステムが全く把握できずに右往左往している。何事も、同僚に尋ねながら仕事をしているので、まるで新卒教師のようだ。

 それにしても、何もかもが新鮮に見える。子どもたちの表情や仕草までが、きらきらと輝いて見えるから不思議だ。そして、この子どもたちと出会えたことを幸せに思うし、この子たちにとって良い影響を与えられる教師でありたいと思う。教師であることの幸福と責任の重さを実感した。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年4月 3日 (木)

教育放送番組に要望すること

 NHK教育放送は、以前と比べると活用率は少なくなってきているだろう。そこで、NHK教育放送を活用する側として考えたことを記録しておきたい。

 考えてみれば、私が小学生時代は放送番組をよく見ていた。道徳や理科、音楽等、今でも映像を覚えている。楽しみだったのは「道徳」。番組を視聴した後に、担任の先生が色々と話し合いをさせてくれたことを覚えている。また、「音楽」の番組で聞いた「魔王」の曲は、解説の部分まで記憶している。たとえ、それが教師が十分な教材研究をして視聴させていたのではなかったとしても、教育効果は大きかったはずだ。

 あの時代から30数年が過ぎ、学校では教えるべき内容も増えた。総合的な学習もあれば、外国語活動もある。情報教育、キャリア教育、食育、環境教育といった○○教育も数え切れないほどある。現場教師が、授業の準備のために費やす時間も増えている。
 また、授業時間数が35週で割りきれなくなったので、周毎に時間割を変えないとならなくなった。毎週水曜日の2時間目は「音楽」という具合にいかなくなったのである。

 NHK教育が、国語や算数などの番組を制作してくれるのは大変ありがたいが、現実問題として教師は「単元」で学習を進めていく。単元の進行に合致していなければ、放送番組は使われにくい。事前に録画して準備をするような時間的なゆとりは、今の学校現場の教師にはないだろう。
 次の学習指導要領では、授業時間数が増える。週に1時間程度増えるとなると、教育課程はそれこそぎりぎりになる。ますます、勤務時間内での「授業の準備」の時間は減っていく。とにかく、教師は単元を終わらせることに必死になるだろう。

 そう考えると、NHK教育放送が活用される機会はますます減っていくことになると思う。内容がすぐれているだけに実にもったいない話だ。
 そこで、以下のことを現場からの要望としてまとめておきたい。

1、教科書を超える内容をもつこと
 動画+音声という点では、放送番組は教科書にないメリットがある。たとえば、プレゼンやスピーチの学習の教材としては、教科書よりもはるかに優れている。また、番組の内容として、その道の専門家に直々に「極意」を教えてもらえると、現場教師としては非常に助かる。教科書を超える内容をもつことがまずは重要だろう。

2、この単元で使えるということを分かりやすくすること
 現場は、教科書の計画に基づいて動く。もちろん、指導計画を学校行事や総合的な学習などに合わせて変更することはあるだろう。しかし、放送教育を研究している教師でもないかぎり、放送番組のスケジュールに合わせて指導計画を変更することは滅多にないはずだ。だとすれば、まずは「教科書のこの単元で使える」ということを明確にアピールしなければ活用はされにくい。

3、ワークシートや雛形、原稿用紙などの教材を充実させること
 授業実践例だけではなく、番組と連動した教材があれば活用も増えるだろう。手間をはぶく仕掛けも必要なのだ。たとえば、「伝える極意」の中の「限られた文字数で事実を伝える〜新聞〜」というテーマがあれば、それに合った新聞用原稿用紙(参考:shinbungenkouyoushi)なども必要だろう。(ちなみに、光村の国語の教科書では、新聞づくりは4年生になっている。)教師の「手抜き」ではないか、という批判もあるだろうが、全ての教科をすべて手作り教材で行えるはずがない。良いものがあれば使った方が効率的だ。

4、15分にとらわれないコンテンツ
 今後は、電波に流れるだけではなくネット上での放送も増えてくるだろう。むしろ、こちらの方が主流になるかもしれない。そう考えると15分は長い。放送には文脈があるので全部視聴するべきだという考えは当然ではあるが、それは制作者側の論理だ。場合によっては10分。あるいは5分の番組があった方がありがたい。もちろん、制作側としては、相当に手間も増えるだろう。しかし、「にんげん日本史」のデジタルコンテンツのように数分のクリップの方が、授業としては使いやすかった。

 これらの要望は、おそらく以前から指摘されていたことだろう。しかし、あえて文章にすることで、自分の考えを整理しておきたい。
「shinbungenkouyoushi.pdf」をダウンロード

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月23日 (日)

放送教育研究会 特別研修会

 3月21日(金)の午後10時からNHK総合で放送された「放送記念日特集 新動画時代 メディアが変わる」を見た。YouTubeなどの動画共有サイトの出現によって「テレビ局」の存在価値が問われるようになってきたというものだ。今や個人が世界中に向けて「映像」を配信できるのである。
 お年寄りがテレビを見て、子どもたちはパソコンの動画共有サイトを見ている場面が印象的であった。世界中で、若い人を中心に「テレビばなれ」が進んでいるのである。
 NHKでも近い将来、番組のネット配信がなされるようになっていくだろう。
 さて、学校現場ではどうだろう。NHKの放送番組を使っているだろうか。すぐれた内容を含んだ番組があるのにもかかわらず、使われ方は十分とはいえない現状にある。

**********************
 熊本の放送教育研究会では、3月23日(日)に、大阪教育大学の木原俊行先生をお招きして特別研修会を企画した。年度末の日曜日ではあったが、20名ほどが参加して充実したものとなった。参考までに、日程をメモしておこう。

日程

午前の部(司会:前田康裕)

⑴ 09:00 開会、会長挨拶(5分)

⑵ 09:05 熊本の放送教育の現状報告(10分)

⑶ 09:15 基調講演「放送教育の実践動向」(木原俊行先生)(80分)

⑷ 10:35 休憩(15分)

⑸ 10:50 番組の視聴と意見交換(木原俊行先生)(70分)

昼食

午後の部(司会:金井義明)

⑹ 13:00 実践報告(事例研究)(助言:木原俊行先生)(60分)

 ① 上妻薫先生(「えいごりあん4」の活用事例)

 ② 山本英史先生(「道徳ドキュメント」の活用事例)

⑺ 14:00 休憩(15分)

⑻ 14:15 ワークショップ(助言:木原俊行先生)(90分)

「20年度放送教育実践計画の作成と発表」

 個人単位で作成し,グループ内で発表。その後,グループの代表が全体にレポート。

⑼ 15:45 閉会、謝辞(5分)

**********************

 木原先生の「放送教育の実践動向」の基調講演では、現状の分析と授業研究の方向性を提案していただいた。特に、実態分析と評価が印象に残った。
 「番組の視聴と意見交換」では、全員で一つの放送番組を見て活用法を語ったりした。自分にとっては初めての経験である。NHKの放送番組は、こうやって時間を作ってしっかり視聴することは極めて重要なことである。できれば春休み中に再度やってみたい。

 午後からの実践報告は、実際の放送番組をどのように授業で活用したのか、という内容であった。発表者二人が、午前中に全員で視聴した番組を教材にした実践を発表してくれた。現実の子どもたちの姿を見ると、納得できる部分が多い。
 最後の「20年度放送教育実践計画の作成と発表」は、刺激になった。来年度の研究計画をすでに春休み前に作成しておくことで見通しが立てやすい。実践計画を立てておくことで、いつ何をすればいいのかを考えることになる。

 それにしても、午前9時から午後4時までの長時間の研修であったが、非常に充実していた。このような企画は、他の研修でもきっと役に立つだろう。このような研修の流れをデザインして下さったのは、講師の木原俊行先生である。あらためて感謝申し上げたい。

 授業のための「手持ちのカード」が一枚増えたように気がした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月21日 (木)

新学習指導要領改定案 3

 今回の指導要領改定案において特徴的なことは、国、社、算、理の各教科の指導計画作成と内容の取り扱いにおいて以下の文言が加わったことだ。

【国語】
第2の各学年の内容の「A話すこと・聞くこと」,「B書くこと」,「C 読むこと」及び〔伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項〕に示す事項については,相互に密接に関連付けて指導するようにするとともに,それぞれの能力が偏りなく養われるようにすること。その際,学校図書館などを計画的に利用しその機能の活用を図るようにすること。また,児童が情報機器を活用する機会を設けるなどして,指導の効果を高めるよう工夫すること。

【社会】
 学校図書館や公共図書館,コンピュータなどを活用して,資料の収集・活用・整理などを行うようにすること。また,第4学年以降においては,教科用図書「地図」を活用すること。

【算数】
 数量や図形についての感覚を豊かにしたり,表やグラフを用いて表現する力を高めたりするなどのため,必要な場面においてコンピュータなどを適切に活用すること。

【理科】
 観察,実験,栽培,飼育及びものづくりの指導については,指導内容に応じてコンピュータ,視聴覚機器などを適切に活用できるようにすること。また,事故の防止に十分留意すること。

**********************
 社会、算数、理科では「コンピュータ、視聴覚機器などを適切に活用」とある。これは、教師が活用することも含むものであろう。

 ところが、国語科においては「児童が情報機器を活用する」とある。
 国語科において「児童が情報機器を活用する場面」とは、どのような場面であり、それがどのように国語の力を高めるのに効果があるのかをイメージできる教師はどれぐらいいるのだろうか。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月18日 (月)

新学習指導要領改定案 2

 何かと評判が悪い「総合的な学習の時間」であるが、マスコミは「時数削減」ばかりを強調している。むしろ、活動やねらいが明確になって「探求型の学習をするべきだ」という焦点化がなされていると考えた方がいいだろう。
 今後は、そのような学習のデザインが、ますます教師側に求められることになる。
**********************

第5章総合的な学習の時間
第1 目標
 横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して,自ら課題を見付け,自ら学び, 自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとと もに,学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的,協同的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにする。

第2 各学校において定める目標及び内容

1 目標
 各学校においては,第1の目標を踏まえ,各学校の総合的な学習の時間の目標を定める。

2 内容
 各学校においては,第1の目標を踏まえ,各学校の総合的な学習の時間の内容を定める。

第3 指導計画の作成と内容の取扱い

1 指導計画の作成に当たっては,次の事項に配慮するものとする。

(1) 全体計画及び年間指導計画の作成に当たっては,学校における全教育活動との関連の下に,目標及び内容,育てようとする資質や能力及び態度,学習活動,指導方法や指導体制,学習の評価の計画などを示すこと。
(2) 地域や学校,児童の実態等に応じて,教科等の枠を超えた横断的・総合的な学習,探究的な学習,児童の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育活動を行うこと。
(3) 第2の各学校において定める目標及び内容については,日常生活や社会とのかかわりを重視すること。
(4) 育てようとする資質や能力及び態度については,例えば,学習方法に関すること,自分自身に関すること,他者や社会とのかかわりに関することなどの視点を踏まえること。
(5) 学習活動については,学校の実態に応じて,例えば国際理解,情報,環境,福祉・健康などの横断的・総合的な課題についての学習活動,児童の興味・関心に基づく課題についての学習活動,地域の人々の暮らし,伝統と文化など地域や学校の特色に応じた課題についての学習活動などを行うこと。
(6) 各教科,道徳,外国語活動及び特別活動で身に付けた知識や技能等を相互に関連付け,学習や生活において生かし,それらが総合的に働くようにすること。
(7) 各教科,道徳,外国語活動及び特別活動の目標及び内容との違いに留意しつつ,第1の目標並びに第2の各学校において定める目標及び内容を踏まえた適切な学習活動を行うこと。
(8) 各学校における総合的な学習の時間の名称については,各学校において適切に定めること。
(9) 第1章総則の第1の2及び第3章道徳の第1に示す道徳教育の目標に基づき,道徳の時間などとの関連を考慮しながら,第3章道徳の第2に示す内容について,総合的な学習の時間の特質に応じて適切な指導をすること。

2 第2の内容の取扱いについては,次の事項に配慮するものとする。

(1) 第2の各学校において定める目標及び内容に基づき,児童の学習状況に応じて教師が適切な指導を行うこと。
(2) 問題の解決や探究活動の過程においては,他者と協同して問題を解決しようとする学習活動や,言語により分析し,まとめたり表現したりするなどの学習活動が行われるようにすること。
(3) 自然体験やボランティア活動などの社会体験,ものづくり,生産活動などの体験活動,観察・実験,見学や調査,発表や討論などの学習活動を積極的に取り入れること。
(4) 体験活動については,第1の目標並びに第2の各学校において定める目標及び内容を踏まえ,問題の解決や探究活動の過程に適切に位置付けること。
(5) グループ学習や異年齢集団による学習などの多様な学習形態,地域の人々の協力も得つつ全教師が一体となって指導に当たるなどの指導体制について工夫を行うこと。
(6) 学校図書館の活用,他の学校との連携,公民館,図書館,博物館等の社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携,地域の教材や学習環境の積極的な活用などの工夫を行うこと。
(7) 国際理解に関する学習を行う際には,問題の解決や探究活動に取り組むことを通して,諸外国の生活や文化などを体験したり調査したりするなどの学習活動が行われるようにすること。
(8) 情報に関する学習を行う際には,問題の解決や探究活動に取り組むことを通して,情報を収集・整理・発信したり,情報が日常生活や社会に与える影響を考えたりするなどの学習活動が行われるようにすること。

**********************
 以下の文章が重要だ。

 「(2) 問題の解決や探究活動の過程においては,他者と協同して問題を解決しようとする学習活動や,言語により分析し,まとめたり表現したりするなどの学習活動が行われるようにすること。 」

 これは、プロジェクト型の協同学習を行いルーブリックによって自己評価を文章でまとめたりする活動を推奨していると解釈してよいだろう。
 一般的な総合的な学習の様子を見聞きする限り、やたらと体験が多い。いつどこで体験したことを「学び」として自分の中で整理しているのかが分からない。「活動あって学び無し」にならないよう、学校単位で極めて効率的な学習活動を考えなくてはならない。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月16日 (水)

協同学習を考える 14

~STADとは何か その3~

Robert E.Slavin氏は言う。

There are three concepts that are central to all Student Team Learning methods: team rewards, individual accountability, and equal opportunities for success. In all of these methods, teams may earn certificates or other rewards if they achieve above a designated criterion. Note that the teams are not in competition; all (or none) of the teams may achieve the criterion in a given week.

 すべての学生チーム学習方法に重要な3つの原理がある。

 チーム報酬、個別の責任、成功の平等な機会。

  これらすべての方法で、もし、彼らが指定された基準の上に目的を達するなら、チームが証明書あるいは他の報酬を得るかもしれない。

 チームが競争にないことに注意を払いなさい。チームのすべてが所定の週に基準を達成するかもしれないし、ひとつも達成できないかもしれない。(訳:前田)。

 

 STADはチーム間競争ではない。学生が習得しなければならないことを、チームのメンバー全員が以前よりもよりよく習得できるように、チームが教えあい助け合いことに意義がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月15日 (火)

協同学習を考える 13

~STADとは何か その2~

 HANDBOOK OF COOPERATVE LEARNINGという本がある。編者はSholomo Sharan氏。この中にSTADの解説をRobert E.Slavinが執筆している。

 Robert E.Slavin氏は、言う。

Student Team Learning methods share with other co-operative learning methods the idea that students work together to learn and are responsible for their own as well as others' learning. However, Student Team Learning methods emphasize the use of team goals and team success, which can only be achieved if all members of the team learn the objectives being taught. That is, in Student Team Learning, the students' tasks are not to do something as a team, but to learn something as a team, where the team's work is not done until all team members have mastered the material being studied. 

 生徒チーム学習は、ともに学び自他の学びに責任をもつという他の協同学習と方法を共有する。しかし、生徒チーム学習は、すべてのメンバーが学習目的を達成させるというチームのゴールと成功に主眼を置く。すなわち、生徒の課題は、チームとして何かをするということではなく、チームとして何かを学ぶということだ。そして、すべてのメンバーが学習資料を習得するまではチームの仕事は終わらない。(前田 訳)

 

 STADは一回だけで終わる「話し合いの学習」とは異なる。習得するべき対象があり、それを全員で学ぶことに主眼が置かれる。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 6日 (日)

協同学習を考える 12

 村上正祐先生より以下のコメントをいただいた。
**********************
 さて,協同学習において「安易に能力別で編成したり、学習者の興味・関心によってグループ編成したりするべきではない。」というのは,私にとって新鮮でした。
 今まで,興味関心でグループ編成をすることを疑ってもみませんでした。
 そういえば,異質な人間がグループにいる時に,思ってもみないアイデアが生まれる・・・共同制作を指導した時に感じたことがありました。
**********************
 これは、けっこう重要な問題だと思う。
 ジョージ・M・ジェイコブス、マイケル・A・パワー、ロー・ワン・イン著「先生のためのアイデアブック」という書籍がある。(伏野久美子、木村春美 翻訳、関田一彦監訳、ナカニシヤ出版)(ちなみに、とてもいい本なので、おすすめの一冊だ。)
 その書籍でも「多様なメンバーによるグループ作りの原則」について以下のように述べられている。
**********************
 この原則は、生徒は、協同したいと思う人だけでなくいろいろなタイプの人と協同すべきであるというものです。つまり、協同学習では、時として自分の選んだメンバーと一緒に活動することはありますが、ほとんどの場合は教師によって決められた多様なメンバーから構成されたグループで活動します。(同掲書 p30)
**********************
 塩田氏と同様、ここでも協同学習のグルーピングの原則が述べられている。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 5日 (土)

協同学習を考える 11

〜STADとは何か その1〜
 協同学習にSTAD(スタッド)とよばれる手法がある。Student Teams Achievement Divisionsの略である。訳すると「学習者チーム達成度による得点分配法」といったものになろう。

 学習者が自分の過去のテスト平均点に対する上昇点をポイントに変換し、チームポイントに加算することで貢献していくといったものである。あくまでも、ポイントは自分の過去の平均点に対するものなので、テストの平均点が高い学習者もそうでない学習者にも、平等にチャンスが与えられる。
 
 この方法も正確に知らないと、単なる「班競争」になってしまうおそれがある。もうちょっと、文献を読んで調べてみることにする。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月31日 (月)

協同学習を考える 10

〜ジクソー学習 その2〜
(前回からの続き)
5、Give students time to read over their segment at least twice and become familiar with it. There is no need for them to memorize it.
5、学生に少なくとも二回彼らの担当部分を読み終えて、それに精通できる時間を与えてください。彼らがそれを暗記する必要はありません。

6、Form temporary "expert groups" by having one student from each jigsaw group join other students assigned to the same segment. Give students in these expert groups time to discuss the main points of their segment and to rehearse the presentations they will make to their jigsaw group.
6、それぞれのジグソーグループから同じ部分を担当している学生を一人ずつ出して、他の学生を加えた一時的な「専門家のグループ」をつくってください。 これらの専門家のグループに、彼らの担当部分の要点を議論して、彼らが彼らのジグソーグループにするプレゼンテーションをリハーサルする時間を与えてください。

7、Bring the students back into their jigsaw groups.
7、学生を彼らのジグソーグループに戻してください。

8、Ask each student to present her or his segment to the group. Encourage others in the group to ask questions for clarification.
8、それぞれの学生に彼らの担当部分をグループにプレゼンテーションするよう頼んでください。明確にするために、グループの他の人に質問するのを奨励してください。

9、Float from group to group, observing the process. If any group is having trouble (e.g., a member is dominating or disruptive), make an appropriate intervention. Eventually, it's best for the group leader to handle this task. Leaders can be trained by whispering an instruction on how to intervene, until the leader gets the hang of it.
9、プ ロセスを観察しながら、グループからグループを移動して下さい。グループが苦労している(例えば、メンバーが支配的であったり、分裂気味であったりした場合)ならば、適切な介入をしてください。ゆくゆくは、グループリーダーがこの仕事ができるようになることがベストです。リーダーがそのこつがわかるまで、あなたが介入する方法についての指示を話すことによって、リーダーは訓練されることができます。

10、At the end of the session, give a quiz on the material so that students quickly come to realize that these sessions are not just fun and games but really count.
10、セッション終了後、これらのセッションが遊びでもゲームでもなく本当に重要であるものと理解できるようになるために、学生に資料についての小テストを行って下さい。

**********************

 一般的には「ジグソー学習」のイメージは次のようなものだ。
 まず、ジグソーグループ(ホームグループ)の中で一人一人が学習内容の担当部分を割り当てられる。それから同じ担当者同士が集まって一緒に調べたり話し合ったりする。それが終わったら、もとのグループに戻って、学習した内容を共有する。元のメンバーが一度ばらばらになって、また元に戻ることから「ジグソーパズル」にたとえられた。

 しかし、私が興味をもったことは、「教師の適切な介入(appropriate intervention)」と「資料についてのテスト(give a quiz on the material)」である。ここでも、教師の役割が示されている。
 協同学習をうまくすすめるためには「教師の役割」が重要なのである。学習を行うのは学習者であるが、それを設計してうまくマネージメントするのは、教師なのである。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月30日 (日)

協同学習を考える 9

〜ジグソー学習 その1〜
 協同学習の方法論の一つに「ジグソー学習(jigsaw method)」がある。ジグソー学習とは、1970年代初頭にテキサス大学のエリオット・アロンソンらによって開発された方式である。
 Jigsaw Classroomのwebサイトには、10のステップで方法を示してある。
 その10のステップを引用して和訳すると以下のようになる。

1、Divide students into 5- or 6-person jigsaw groups. The groups should be diverse in terms of gender, ethnicity, race, and ability.
1、学生を5人または6人のジグソーグループに分けて下さい。グループは、性、民族性、人種と能力に関して多様でなければなりません。

2、Appoint one student from each group as the leader. Initially, this person should be the most mature student in the group.
2、リーダーとしてそれぞれのグループから1人の学生を任命してください。まず第一に、この人は、グループでもっとも分別のある学生でなければなりません。

3、Divide the day's lesson into 5-6 segments.
 For example, if you want history students to learn about Eleanor Roosevelt, you might divide a short biography of her into stand-alone segments on:
(1) Her childhood,
(2) Her family life with Franklin and their children,
(3) Her life after Franklin contracted polio,
(4) Her work in the White House as First Lady, and
(5) Her life and work after Franklin's death.
3、日常 の学習を5-6の部分に分けてください。
 たとえば、あなたが、歴史科の学生がエレノア・ルーズベルトについて学ぶことを望むならば、あなたは彼女の短い伝記を以下のような独立した部分に分けるのです。
(1)彼女の幼児期
(2)フランクリンと彼らの子供たちと一緒の彼女の家庭生活
(3)ポリオにかかったフランクリンがポリオに感染した後の彼女の生活
(4)ファーストレディーとしてのホワイトハウスでの彼女の仕事
(5)フランクリンが死んだ後の彼女の生活

4、Assign each student to learn one segment, making sure students have direct access only to their own segment.
4、必ず学生が彼ら自身の担当部分だけへ直接アクセスをするようにして、各々の学生に1つの担当部分を学ぶよう命じてください。
(つづく)

(ちなみに、エレノア・ルーズベルトとは、米国第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの妻である。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月28日 (金)

協同学習を考える 8

〜バズ学習について・その2〜

 「少人数で話し合えば協同学習になる」という思いこみは多い。協同学習は決してそうではない。教師によって緻密に計画されたものではなくてはならない。

 塩田氏は、「課題には何らかの不確実性(よくわからないところ・曖昧性)を含む問題であるべきである」と述べる。そのことが、学習者に内発的動機づけを起こさせるというわけである。(塩田芳久著「授業活性化のための『バズ学習』入門」より)
 だから、学習課題の設定は極めて大きな問題である。それを、学習者にまかせてしまうと、学習は極めて非効率的になる場合がある。ある学習者には不確実性を含まず、他の学習者にはさっぱり分からないといった課題だってありうる。

 また、グルーピングについて、塩田氏は次のように述べる。
「バズ学習導入の初期の段階では、能力(知能・学力)を基準として、グループ内は異質、グループ間は等質という組み合わせが適切である。」(同掲書)

 その根拠については割愛するが、こうしたグループ編成を行うのは教師の仕事である。だから、安易に能力別で編成したり、学習者の興味・関心によってグループ編成したりするべきではない。学習者の能力や人間関係を教師が分析し、意図的にグループ編成を行うべきである。

 (全国協同学習研究会による「協同学習の世界」のWEBサイトには、協同学習についての情報が多く掲載されている。)
 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年12月26日 (水)

協同学習を考える 7

〜バズ学習について〜

 私の中学時代、朝の自習の時間に小テストを行い、その後に小グループで答え合わせを行いながら協同で学習する時間というものが導入された。数学と英語であった。学級担任は「バズ学習だ」と言っていた。
 当時、私は数学と英語は得意だったので、もっぱら教え役になってしまった。しかし、メンバーは「どうせ、あんたは勉強できるからいいよね。」といった態度であった。やる気のないメンバーに教えるのはつらかったし、自分も教える意欲はうすらいでいった。担任は「教えることで、より深く理解できる」といったが、どうも納得できなかった。簡単な小テストに多くの時間をかけるのは、なんとも意味のないことに思えた。いつのまにか、その「バズ学習」はなくなってしまった。

 今にして思えば、あれは「バズ学習」ではなかった。バズ学習が正しく理解されていなかったのだ。どうも、学校現場では、「少人数で話し合えば、一斉指導よりも学習が効果的になる」という思いこみがあるように思える。
 バズ学習の産みの親である塩田芳久氏は言う。
「バズ学習の研究では、早くから『課題のないところには学習は存在しない』という原理にしたがって、いわゆる『課題による指導』の方式をとり入れた。」
(塩田芳久著「授業活性化のための『バズ学習』入門」より)
 バズ学習についても考えてみたい。(つづく)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年12月25日 (火)

協同学習を考える 6

〜メンバー編制と学習の目標〜
 異なったタイプの学習者が一つのチームにいた方がいい。Aタイプの学習者とDタイプの学習者が一つのチームに存在した方が明らかに学習効率は高まる。
 しかし、だれでもよいというわけではない。人には性格がある。それぞれのメンバーを導いてくれる性格の学習者もいれば、メンバーができないことを責める学習者もいる。どの組み合わせがうまくいくかは、最終的には、教師の「勘」に頼らざるをえない。意外な組み合わせがうまくいくこともあれば、発言力が高いもの同士がぶつかりあうこともある。

 そこで、私はプロジェクト学習を「山登り」にたとえることにしている。だから、次のように学習者に語ることが多い。

 「プロジェクトチームとは、何かの目標を達成させるために特別に編成されたチームです。今回は、先生が調査会社の社長です。君たちは、調査チームなのです。社長からの命令で目標を達成させなくてはなりません。3人で大きな山を登るようなものです。途中で、うまくいかなかったり、けんかしたりするかもしれません。でも、それに負けずに、乗り越えてください。苦労して山にたどりついたとき、きっと力がついているはずです。」

 つまり、「山に登ること」そのものを目標とするのではなく、山に登ることによって「力」をつけることを目標にするのである。こうした教師による「学習についての説明」は、今後の学習展開にきわめて重要な効果を発揮する。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月24日 (月)

協同学習を考える 5

〜メンバー編制をどうするか〜
 同じ学習課題や同じ興味・関心をもった学習者が集まって活動を行った方が一見よいよいに思える。「一人一人を大切にする」学習のように思えてしまうが、はたしてそうだろうか。
 「一人一人を大切にする」ということは、「授業導入時の一人一人の課題意識や興味・関心をそのまま使う」ということではないはずだ。一人一人の学力保証を確実に行うということではないのか。

 そう考えると、メンバーの間でClearly perceived positive interdependence(明らかに認められた建設的な相互依存)の関係を築き上げることの方が重要だ。一人一人のindividual accountability and personal responsibility(個々の責任と個人の責務)が明確になり、学習者にとって「自分も学習に参画した」という意識が高まるからである。

 そこで、まず学習者を4つに分けてみることにする。
 「発言の多さ」を縦軸に、「学習目標」を横軸に設定する。
 協同学習が言葉を媒介にしたものであるである以上、発言力は極めて大きな要因となるからだ。発言数が極めて少ない学習者ばかりが集まったチームと、発言数の多い学習者が集まったチームとでは、学習効率に違いが出てくる。
 横軸の「学習目標」は、ここでは「グラフから読み取ったことを記述する」ということを例に挙げて考えてみよう。事前の調査において「グラフから読み取って書いた文の数」の多さで学習者を分けてみる。
 そうやって考えてみると、学習者は以下の4つのタイプに分けられる。
A:発言力があり、グラフから読み取ったことを文章化できる。
B:発言力に乏しいが、グラフから読み取ったことを文章化できる。
C:発言力はあるが、グラフから読み取ったことを文章化できない。
D:発言力に乏しいし、グラフから読み取ったことを文章化できない。

 これらの違ったタイプの学習者が同じチームに入っていた方がいい。多様な考えが導き出されるからだ。問題は、タイプAの学習者にとっても、他のメンバーに依存せざるをえないような学習課題を設定することだ。そうでないと、Aだけが一人で活躍してしまうことになるからだ。Aにとっても一人では解決できないハイレベルの課題が必要になってくる。(つづく)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月23日 (日)

協同学習を考える 4

-チーム編制をどうするか-
 協同学習をすすめるためにはチーム編制を行わなければならない。よく質問されるのが「1チームあたりの人数」である。結論から言えば、「ケースバイケース」である。さらに経験則から言えば、6人以上になると、インタラクション(相互作用)が生じにくくなる。5人でもけっこう多い。
 中学年で3人、高学年で4人というところが妥当なところだと思う。しかし、これも学習課題によって異なる。
 何かの資料を吟味したりする場においては、3人がよいように思える。たとえば、説明文の中からキーセンテンスを探したり、互いの原稿を読み合って相互批正を行うような場合である。おそらく、それぞれの発言の回数が増えるからであろう。
 一方、何か発想を生み出すような場合では4人の方がよかった。たとえば、ニュース番組をつくるといった企画の段階では、様々なアイデアが必要となる。たくさん出し合って、その中からよいものを選び出すような流れにするためには、最初の段階で、ある程度の数のアイデアが必要となるからだろう。

 メンバー編制をどう行うか。それもまた重要な問題である。学習課題ごとにまとまったり、学習者の興味・関心のあるもの同士が集まったりする場合もあるだろう。それはそれで一つの方法なのだが、問題も多い。この方法で行うと、チームの人数にばらつきが生まれるのである。
 同じ学習課題をもった学習者が、あるチームで7人集まり、あるチームでは2人しか集まらないということもあるはずだ。そうなると、学習効果にも差が生じる。
 また、同じ興味・関心をもった学習者が集まると、どうしても「仲良しグループ」になりやすい。こうなると、それぞれの異なった考え方が相互に作用されにくくなる。

 私は、チーム編制は「教師指導」で行うべきだと考えている。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月16日 (日)

協同学習を考える 3

Roger T. and David W. Johnsonによる「AN OVERVIEW OF COOPERATIVE LEARNING」に以下の文章がある。

ELEMENTS OF COOPERATIVE LEARNING
It is only under certain conditions that cooperative efforts may be expected to be more productive than competitive and individualistic efforts. Those conditions are:

Clearly perceived positive interdependence
Considerable promotive (face-to-face) interaction
Clearly perceived individual accountability and personal responsibility to achieve the group’s goals
Frequent use of the relevant interpersonal and small-group skills
Frequent and regular group processing of current functioning to improve the group’s future effectiveness

協同学習の原理
協同的な取組が、競争的で個人的な取組よりも生産的になることが期待されるのは、ある特定の条件のもとにあるときだけである。その条件とは以下だ。
・明らかに認められた建設的な相互依存
・かなり促進されるべき(面と向かった)相互作用
・グループのゴールを達成させるための、明らかに認められた、個々の責任と個人の責務
・関連性の高い少人数グループによる対人スキルの頻繁な使用
・グループの将来の有効性を改善するために頻繁で定期的なグループの現在の機能を向上させる作業
(訳:前田)

 この協同学習の原理(ELEMENTS)を知っているか知っていないかでは、学習課題や学習活動そのものが大きく異なってくる。
 子どもたちが興味・関心をもった課題ごとにグループをつくればよいというものではない。協同的な学習を促進させるためには、むしろ個人の責任と責務が明確でなければならない。つまり、個々のメンバーは個々のメンバーにとって必要不可欠な存在であるということを、個々のメンバー自身が自覚できるような活動にしなけらばならないということである。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月15日 (土)

協同学習を考える 2

 協同学習を支える理念は、社会構成主義の考え方である。それは、知識を個人の産物とは捉えず、関係性の産物と捉える。したがって、相互の協力による問題解決的な学習を志向する。
 また、ヴィゴツキーの「発達の再接近領域の理論」も協同学習を支えるものとなっている。発達の再接近領域とは、学習者が独力で解決できる水準と、他人との協同で解決できる水準との差異がによって決定される領域を指す。子どもが協同で解決できることは、やがて独力で解決できるようになる、というものである。
 こうした概念が広がることによって、特に米国において協同学習は研究され発展してきた。そして、様々な手法も開発されてきた。「The Cooperative Learning Center at The University of Minnesota」のWEBサイトには、 Roger T. JohnsonとDavid W. Johnson による情報が満載されている。また、二人の著書は「学習の輪―アメリカの協同学習入門」(二瓶社)という書名で和訳されている。
 
 問題は、こうした協同学習を支える理念や理論、また、学習を成立させるための要素や条件などが、教室の現場に理解されないまま、手法(バズ学習やジグソー学習など)だけが伝わっていくことである。手法は、学習を効率的に進めるための一つの方法にしかすぎない。
 なぜ協同学習が良いのか、という理念を教師が理解していなかったら、どのような手法も効果的には働かないだろう。授業設計の理念を教師自らが語るようになっていなければならないのである。(つづく)
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月13日 (木)

協同学習を考える 1

 1999年、米国でプロジェクト型の協同学習の研修を受けた。それ以来、この手の学習の実践を行ってきた。特に、国語専科になってからの3年間は、ほとんどの単元をプロジェクト型の協同学習で行ってきた。それは、実感として、この学習スタイルのメリットを感じてきたからである。だから、基本的には協同学習には賛成の立場である。
 しかし、授業にはうまくいかなかったものもある。どんな方法もメリットもあればデメリットもある。協同学習を批判的に考察することも重要だ。多くの教師は、「成功事例」を引き合いに出して、その方法の良さを主張したがる。「失敗事例」は検討されにくいからだ。

 協同学習では、それぞれの学習者が学び合い高まり合う姿を理想だと考える。現に、教師がレクチャーをするよりも学習者の意欲は高まる場面が多い。話し合うことによって内発的な動機付けが行われ、それぞれの学習者が自らの意志で学習に積極的に参画したという意識が促されるからであろう。

 しかし、個々のグループが話し合っている一つ一つの言葉を一人の教師が知ることは不可能である。教師がグループをまわっている間は、他のグループの学習内容は把握しにくい。誤った解き方を教え合ったりすることもあれば、他の学習者に答えだけを教えたりすることもあるだろう。課題が簡単であれば、「教える側」「教えられる側」の関係が固定化され、「学び合い」には成立しにくい。また、授業の中で、学級全体で「現時点」での課題を共有する時間も必要だろう。

 そう考えると、いくつかの問題点も出てくるのではないか。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月 6日 (木)

PISA2006について

 OECDの学力調査(PISA2006)の発表が行われた。
 どの新聞も「順位が下がった」という見出しばかりだ。おそらく「教育行政の責任だ」という批判が高まって、「ゆとり教育がまちがっていた」「授業時数を増やせ」という意見が続出するだろう。
 新聞だけを読んでいると、「学力後退」だけが目についてしまう。日本の子どもたちの学力のどこが良くて、どこが足りないのかを冷静に見ることができなくなってしまう。(テレビの伝え方はもっとひどかったが・・・。)
 OECD東京センターのサイトでは、日本語の資料が掲載されているので、まずは読んでみるべきだろう。PISAの理念や目的が示されている。
http://www.oecdtokyo.org/theme/edu/2007/20071204pisa.html

 文部科学省のサイトにも資料が掲載されている。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/sonota/07032813.htm

 PISAのことではないが、文部科学省のサイトで目に付いたのは、日本経済新聞の記事に対する反論がのっているところだ。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/information/20071114/001.pdf

 教育行政への批判は多い。なかには的外れなものもある。教育行政が、自らの意見をきちんと示し、理念を説明することは重要なことだ。言われっぱなしでは、かえって誤解が生まれてしまう。

 学力の問題を、単純に教育課程の問題で捉えてしまうべきではない。社会的な背景や経済的な問題もあるはずだ。家庭の教育力も関係している。
 マスコミがやるべきことは、問題への冷静な分析と解決策を提起することであって、行政を批判することではないはずだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月27日 (月)

電気店での研修を終えて その2

 ウインドウズとマッキントッシュは、ソニーとパナソニックのような違いではなく、バスとトラックの違いのようなものに感じる。それぞれに得意不得意の分野があるからだ。
 バスで荷物を運べなくはないが、荷物を運ぶときはトラックの方が効率がいい。同様にトラックで人を運べないわけではないが、人を運ぶときはバスの方が効率がいい。運転の仕方には、ある程度の慣れが必要なのだが、基本的な操作はほぼ同じである。

 だから、どちらも使えた方がいいのに、といつも思う。しかし、2台のパソコンを買うのは経費もかかる。以前、ハワイ大学で2ヶ月間研修したときは、2台のノートパソコンをもっていったので重かった。

 ところが、最近はマッキントッシュもウインドウズが走るようになった。今のマックはintelのCPUを積んでいるので、OSを切り替えて使えるようになったのである。
 家族が使うコンピュータは全て、BootCampという方法でマックOSとWindows Vistaを切り替えて使用している。起動するときに、どちらのOSを使うか選択できる。
 私自身は、Parellelsというソフトを使って、マックOSの上にWindowsを走らせて使っている。写真の画面は、マックOSとWindows XPとWindows Vistaの三つのOSを同時に起動させている様子である。現実的に三つを立ち上げて仕事をすることはないが、マックとWindowsの二つを同時に立ち上げて仕事をすることはある。これは便利だ。だから、ノートパソコンは1台ですむようになった。

Parallels

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月26日 (日)

電気店での研修を終えて

 電気店での研修が終わった。ふりかえってみると、私は本当にハードウェアには弱い。商品知識がほとんどないので、一つ一つのコンピュータの機種の違いを問われても、答えることができなかった。
「ICTの授業での生かし方」を研究するのは仕事ではあるが、「コンピュータそのもの」にはそれほど興味がない。だから、アプリケーションの新しい使い方などが分かれば、それを授業だったらどう生かせるかな、と考えてしまう。要するに「使い方・生かし方」に興味があるのだ。
 だから、知り合いから、「今度、プリンタを新しくしたいのですが、何がいいですか?」などとよく聞かれるのだが、「知りません」としか答えようがない。

 ちなみに私はマッキントッシュユーザーだが、自宅ではウインドウズも使っている。写真は、自宅の私の机の写真である。
 一番左はWindowsXP。主としてDVDの量産や、テレビ会議用のマシンとして使う。
 左から二番目のノートパソコンはintelマック。文書作成とプレゼンで使う。
 左から三番目は、G5マック。メール、インターネット、動画編集、イラストの作成用である。
 一番右側はWindowsVista。地デジの録画やWindows Media Centerのコンテンツを見るときに使う。
 無意識に、マックは制作用、ウインドウズは視聴用として使い分けている。Desk

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年8月23日 (木)

電器店で研修中

 熊本市教育委員会による体験研修のために、22日から24日までベスト電器本店5階パソコン売り場で働くことになった。担当はアップルストア。慣れない仕事で大変。プリンタやパソコンを販売中。
 買う立場の商品と売る立場の商品とでは全く別の品物に見えるから不思議である。また、案外とマッキントッシュに興味を持って下さるお客様が多くて驚いた。(^o^)
 商品知識がないと販売ができない。めまぐるしく変化するICT機器のハードやソフトの知識をインプットしていくことはかなりの労力を必要とする。
 23日は午後3時30分まで。24日は午後5時までの勤務。11:00と13:00と16:00にそれぞれiLife08, iWorks08の1時間程度のデモを行う。
(お時間のある方は、のぞきにおいで下さい。m(_ _)m)

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007年4月14日 (土)

新年度に向けて2

 都留文科大学の鶴田清司氏は、「大村はま氏や斎藤喜博氏に見られるように『○○方式』以前に、すぐれた授業者には固有の実践的力量が存在する。本学会でも『技術的熟達者』モデルだけでなく『反省的実践家』モデルに基づく授業研究が必要である。」と述べている。  (日本言語技術教育学会編「言語技術教育16」(明治図書))
 この意見に賛同する。
 たしかに、模擬授業による授業研究の方法は効果的であり教授技術は向上していくはずだ。しかし、現場の学校の授業では、その方法だけでは十分とは言えない。たとえば、総合的な学習のように半年や一年のスパンで協同的な学習を行っていくような場合では、教師の細かな指示・発問よりも、学習全体の設計が重要になってくるからである。また、ビデオ番組やスライドショーのづくりといったメディア制作の学習においても同様のことが言える。児童・生徒の学習活動の状況を反省的に考察して、それを修正・改善していくような「反省的実践家」も必要なのである。
 西オーストラリアのオーウェン先生は、学習に必要な知識や素材を全てWEBサイトに集めていた。生徒たちは、学習をする上で必要な情報をこのWEBサイトから得られるようにしていた。生徒たちは、まさに自分の頭で考えながら学習を行っていくことになる。授業中は、教師の指示・発問は極力少なくして、生徒達の学習の状況を見ながら、WEBサイトを修正するという授業研究の方法なのである。彼はまさに「反省的実践家」だといえよう。

 新年度の目標の一つとして「反省的実践家」としての授業づくりを行っていきたい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年4月 9日 (月)

新年度に向けて1

 新年度がはじまった。
 私は、またもや少人数指導の国語専科となってしまった。
 国語専科は3年目になる。毎日、平均5時間、国語の授業をやり続けるのは、けっこう大変である。専門教科ではないので、特に自分自身が勉強しないと務まらない。だから、このところ国語教育関係の本ばかり読んでいる。

 新年度は、とてもエネルギーにあふれる。あれもやりたい、これもやりたい、と思う。でも、年度末になると、あれもできなかった、これもできなかった、という気持ちになる。これはどうしてだろう。
 教師は、新年度に明確な戦略を立てるべきだと思う。それは研究の戦略でもあり、教育実践の戦略でもある。
 私の今年度の戦略キーワードは、「思考力」だ。それを、すべての研究会でリンクさせる。
 学校の研究テーマは「コミュニケーション能力の育成」なので、「コミュニケーションに必要な思考力」というテーマで授業を創る。
 私が所属している熊本大学教育学部情報教育研究会の研究テーマは「PISA型読解力の育成」なので、「PISA型読解に必要な思考力」というテーマで授業を創る。
 もちろん、「思考力」は幅広い。あらゆる教科で思考力は必要だ。だが、以下の視点で授業を見直していくと、新しい授業が創れそうだ。

1、思考力とは何か。思考力にはどんな種類があるのか。
2、文章を読んで思考するとは、どのような状態を指すのか。
3、すぐれた意見が飛び交っている授業においても、学習者全員が本当に思考しているのか。
4、説明文教材を、学習者が必要感をもって分析・批評するためには、どのような状況設定が必要か。
5、思考力は、どのように評価するか。
6、通常の教科書単元を通常の時間数で指導するという条件の下で、思考力の育成をどう行うか。
etc...

 今年度も引き続き、授業の構想と実践、それに加えて省察を行っていく。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月20日 (火)

学力と授業方法 その11

 「考えない国語」から「考える国語」にするためには、考える力を高めなくてはならない。そのための方法は様々あるが、確実に必要なことは、子どもたちが「考えた足跡」を残すことである。「自己評価カード」が、その役割を果たす。
 子どもたちが、毎時間、3分間ずつ「自分が何を学んだのか。」「何ができるようになったのか。」「何ができなかったのか。その理由は何か。」ということを文章にして書いていく。教師は、その「自己評価の状態」を評価していく。
 はじめは、教師が一人一人にコメントしていたが、それでは継続が難しい。だから、「理由を書いて」「何を学んだの」「よい自己評価」など、はじめからいくつかのコメントを記入しておいてそれにチェックを入れるようにした。
 よい自己評価には星印をつける。次の時間には、星印のついた子どもたちを立たせて自分の自己評価の文章を読ませる。まわりの子どもは、それを聞くことで「自己評価の方法」を学んでいくことになる。すると、星印のついた子どもが増えていく。そこで、さらに良い自己評価には星に丸印をつける。(子どもたちは『星丸』とよんでいる。)次の段階では、星に丸印のついた子どもたちを立たせて読ませることになる。
 特定の子どもだたちだけが立ってしまう状態にならないようにするために、いつもより伸びた子どもや、みんなとは違うことを書いている子どもに星印をつけることがある。その子どもたちは、とても喜ぶ。
 私は、よく子どもたちに「国語とは、どのような教科なのか」という話をする。たとえば、次のような話である。
「国語とは、考える力をつける教科なのです。そのために『言葉』を使うのです。だから、考える力を高めるために文章を書くのです。考えないで書くことはできないでしょう。めんどうくさがらずに、毎回文章を書くと、頭がよくなるのです。」
 自己評価カードを、子どもたちはいやがらない。自分の「考え」を表した「文」が確実に評価されてもどってくるからだ。地道な取組だが、これを一年間、毎単元ごとにやっていく。

 私の授業では、ビデオやスライドを作成したりする活動が多いのだが、作品制作が目的ではない。作品の制作は子どもにとっての「活動のゴール」である。「学習のゴール」は、考える力を高めるという「学力の形成」に他ならない。そのための「自己評価」であり、教師による「形成的評価」である。「jikohyoukacard.pdf」をダウンロード

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月15日 (木)

学力と授業方法 その10

 国語科の様々な研究授業や公開授業の中で「調べて発表」の場面を見ることが多い。教師の出番が少ないので、ひょっとしたら教師にとっては見せやすいのかもしれない。
 しかし、いつも私は「こんな学習でいいのか。」という疑問をもつ。子どもたちがWEBサイトや図書を読んで調べたことを模造紙に書き写して、それを読むだけ、というパターンが多いからだ。だから、難しい言葉もそのまま書いてあるし、意味もよく分からずに読んでいる。
 見ている子どもは、「発表の仕方」を評価するシートをもって、それにチェックをしている。最後に、「声が大きかったです」「アイコンタクトができていました」といった評価がなされる。
 たしかに、子どもたちは、読んでいるし、書いているし、話しているし、聞いている。しかし、考えていないのである。
 文化審議会の考え方に基づくと、こうした授業では国語力は育たない。だが、一般的には、このような「調べて発表」の授業が多いのではないだろうか。教師が、「読む・書く・話す・聞く」を個々の「ねらい」として捉えているからである。「考える力・感じる力・想像する力・表す力」といった国語力の目標意識が欠如しているのである。(つづく)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年3月14日 (水)

学力と授業方法 その9

 そもそも「国語力」とは、どのような能力なのだろうか。また、それを高めるとは、どのようなことをすることなのだろう。
 文化審議会は、平成16年2月に「これからの時代に求められる国語力について」という答申を出している。モデル図から抜粋すると以下の力を「理解する力」「表す力」としている。
**********************
○ 理解する力
 ・ 考える力
  分析力、論理構築力などを含む、論理的思考力
 ・ 感じる力
  相手や気持ちや文学作品の内容・表現などを感じ取ったり、感動したりできる情緒力
 ・ 想像する力
  現実には存在していない事柄などを推し量り、頭の中でそのイメージを自由に思い描くことのできる力

○ 表す力
 考え、感じ、想像したことを表すために必要な表現力
**********************

 つまり、文化審議会が主張している「国語力」における「理解する力」とは「考え、感じ、想像する力」のことなのである。辞書的な意味である「物事がわかる力」ということとは異なるのだ。
 また、文化審議会は次のようにも述べる。
**********************
(2)国語力の中核を成す領域
   この領域は,「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」の四つの力によって,構成されている。これらは,言語を中心とした情報を「処理・操作する能力」であり,国語力の中核と考えられるものである。
   また,この四つの力が具体的な言語活動として発現したものが,「聞く」「話す」「読む」「書く」という行為であると考えられる。日常の言語生活の中では,この「聞く」「話す」「読む」「書く」という言語活動が様々な状況に応じて,複雑に組み合わされて用いられている。
**********************
 この考えに基づけば、国語教育で行うべきことは、「聞く力」「話す力」「読む力」「書く力」を個々に高めることではない。さらに、文化審議会は以下のようにも述べる。
**********************
<「聞く」「話す」「読む」「書く」を組み合わせた指導を>
   日常の言語生活においては,「聞く」「話す」「読む」「書く」というそれぞれの言語活動が複雑に組み合わされて用いられているのが普通である。国語教育においても,この点を考慮して,「聞く」「話す」「読む」「書く」という言語活動を有機的に組み合わせて指導していくという観点が大切である。その際,既に述べたように,国語力の中核である「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」の四つの力が具体的な言語活動として発現したものが,「聞く」「話す」「読む」「書く」という行為であることを踏まえて,「聞く」「話す」「読む」「書く」の力を伸ばすためには,国語力の中核である「考える力」などの四つの能力を伸ばすことが必要であるという認識に立つことが重要である。
**********************
 「聞く・話す・読む・書く」を有機的に組み合わせて指導しながら「考える力・感じる力・想像する力・表す力」を高める、と捉えると、国語力を高めることの中身が明確になる。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月13日 (火)

学力と授業方法 その8

 読むこと5
 言葉の理解を言葉で行うには限界がある。特に、視覚・触覚・味覚・臭覚・聴覚など知覚に関する言葉は、感覚的な体験がなければ概念形成がなされない。(たとえば「甘い」「すっぱい」「辛い」「苦い」などは、実際にそのような食べ物を味わう体験に言葉が重ね合わされて獲得していくはずである。)
 特に生活経験の乏しい幼少期においては、体験的な理解は必要不可欠だろう。

 前述した「アップとルーズで伝える」の教材に以下の文章がある。

「新聞を見ると、伝えたい内容に合わせて、どちらかの写真が使われているのが分かります。」
「そこで、その中から目的にいちばん合うものを選んで使うようにしています。」

 写真は視覚的な情報である。
 「伝えたい内容に合わせて写真を使う」「目的にいちばん合う写真を選ぶ」という行為は、文章だけでは実感的な理解はできない。そもそも「伝えたい内容」や「目的」とは、何なのだ。
 文章を検討することは、国語科の学習においては、きわめて重要な学習である。しかし、「段落構成指導」「要約指導」だけでは、言語技術を高めることはできても、国語を正確に理解することにはならない。その行為を実際にやってみるという体験も必要なのではないだろうか。
 そう考えていくと、そもそも国語科とは、どのような力をつけるための教科なのか、ということにもどってくる。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月12日 (月)

学力と授業方法 その7

 読むこと4
 4年生の国語の教科書(光村4年下)に「アップとルーズで伝える」という教材がある。テレビや新聞の写真にはアップとルーズがあり、それぞれ伝わり方が違うので、受け手が知りたいことや送り手が伝えたいことを考えて選択されている、という内容の説明文である。
 一般的な説明文指導では、「段落構成」と「要約」が中心となることが多い。段落相互の関係を考えさせたり、文章の主旨を考えさせたりするためには当然のことなのだと思う。
 問題は、そのような指導で、内容が本当に理解できたと言えるかどうか、である。同じ場所を撮影しても画面の「切り取り方」で印象が異なる、という「内容」は、文章だけでは実感的な理解は伴わないだろう。段落構成を考えたり文章を要約するための技術は高まるが、説明文に書かれている「内容」を子どもたちは「なるほど、そうか。」と思うだろうか。少なくとも、「自分のこと」としては考えにくいのではないか。
 そこで、この教科書では、「アップとルーズで伝える」の次の単元「四年三組から発信します」をセットにしている。アップとルーズを意識して撮影を行い、新聞づくりを行うというものだ。
 「文章の理解」を「活動」によって促す、という方法には賛否両論あるだろう。もちろん、段落構成指導も要約指導も行わなければ、国語の授業とは言えない。しかし、「実際にアップとルーズを意識して撮影して何かを伝える」という活動を行うことによって、子どもたちは「自分のこと」として教材文を考えられるようになるのではないだろうか。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月11日 (日)

学力と授業方法 その6

読むこと3
 読解の前提条件として、概念形成が必要なことは述べた。名詞や動詞のような比較的単純な概念は獲得しやすいが、抽象的な概念は獲得が難しい。
 たとえば、「経済」という言葉を、子どもに説明できるだろうか。日本語大辞典(講談社)によれば「財・サービスの社会的な生産・流通・消費の総過程とそのシステム」とある。

 5年生の国語の教科書(光村5年下)の「ニュース番組作りの現場から」という教材では、前述した「経済」のような抽象的な言葉がかなり多く含まれている。他にも、「政治」「取材」「特集」「過程」「報道」「支局」「産業」「想定」「住民感情」「被害」「編集」「疑問」「放送」などが出てくる。
 人間というものは不思議なもので、これらの言葉を、前後の文脈から、自分なりに解釈しながら読んでいるものだ。だから漠然と分かった状態になる。
 そこで、授業においては、何となく分かっている「言葉」を明確にしていくような学習活動が必要になる。だから、国語辞典は常に机上に置いておき、国語科に限らず社会科でも理科でも、曖昧な言葉をすぐに子どもたちが調べられるようにしておかなければならない。
 また、インターネットにコンピュータがつながっている場合は、よく、その場で調べてみせたことがある。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』などは、授業中でもよく使える。また、Yahoo辞書や、goo辞書excite辞書なども使える。
 場合によっては、教師が説明することも必要だ。辞書だけでは分からないような場合である。

 問題は、言葉の意味を言葉で理解していく過程である。前述した「経済」でも、それを理解するためには「財」「サービス」「生産」「流通」「消費」「過程」の意味が分かっていないと分からない。
 国語辞典で言葉の意味を獲得していく学習は、基本的な学習活動であり、読解のための必要条件である。しかし、それには限界もある。(つづく)

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2007年3月10日 (土)

学力と授業方法 その5

 読むこと2
 たとえば次の文章を読んでみる。

 「キツネは、ラマクを放り投げました。」

 「キツネ」「ラマク」「放り投げる」の意味が分からないと、読解できない。
 一読して「ラマク」とは何だろう、と思う人も多いだろう。実は、私の造語である。
 次のように文章を変えてみる。

 「キツネは、ドングリを放り投げました。」

 これだと読解できる。容易に心に思い浮かべることができる。「キツネ」も「ドングリ」も「放り投げる」も全てが「事前に獲得している知識」だからだ。これらは、「概念」「心象」ともよばれる。

 では、人はどうやって「概念」を獲得していくのだろう。
 人間は生まれてから、ずっと五感を働かせて、それらを獲得していくはずだ。だから、脳の発達には、五感を働かせる「実体験」が必要なのであろう。
 しかし、すべてを実体験で獲得することはできない。多くは、絵や写真、テレビ・映画などの「視覚情報」から獲得することが多いはずだ。幼児が絵本やテレビ漫画で獲得する概念は膨大なものだろう。
 たとえば、最初に示した文章の「キツネ」を実際に見ることがあるだろうか。山里に住んでいなければ日常的に見ることは不可能だろう。われわれの多くが「キツネ」に対して思い描いている概念は、物語の登場人物として獲得される場合が多いはずだ。多くの日本人には、ちょっとずるがしこくて、すばやくて、人をだましたりすることもある、といったキツネの概念が形成されているのではないだろうか。
 似たようなもので「タヌキ」がある。「キツネ」と同様に物語の登場人物として概念形成がなされることが多い。キツネに比べると、どこか賢さやすばやさに欠ける印象があるのは物語の内容によるものだろう。
 人が文章を読解していく場合、こうした概念が必要になる。だから、幼児の本は「絵本」であり、その視覚情報に言葉を交わすことによって、概念は形成されていくことになる。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 9日 (金)

学力と授業方法 その4

 読むこと 
「読解」の意味を調べると、「文章の意味・内容を読み取ること、文章を読んで理解すること、Reading and Understanding」(日本語大辞典:講談社)とある。
 現実の授業場面としては、読むだけなら意味は理解できるだろう。「ごんぎつね」を読むと、ほとんどの子どもたちは、そのあらすじは大まかに理解できる。しかし、国語教育では、それでは「浅い読み」だと指摘される。そこで、「深い読み」にするために、教師は授業を行うことになる。
 「あらすじの理解」「意味の理解」だけでは不十分なのだ。ごんの行動の意味を理解したり、表現の意図を読み取ったりすることが要求されるのである。ところが、この「深い読み」ができるようにするための方法が難しい。国語科授業研究の多くは、文学教材の読み深め方が主流だったのは頷ける。それだけ教える側の興味・関心が高かったということだろう。

 では、「読解する」とはどういうことなのだろう。

 学校などの共同研究のリーダーをやっていて思うことがある。職員の共通理解を図ろうとして、推薦図書を列挙したり、職員図書を購入したりしたことがある。しかし、議論の段階になると、メンバーの理解の仕方が一致していないということに気づいた。それぞれに本を読んだはずなのだから、そのレベルは理解しているだろうと予想していたのだが、そうではないことが多かった。読んだ本は共通であっても、理解の仕方は人によって異なるのである。
 それは、読む側によって「事前に獲得している知識」が異なるからである。たとえば、小学校英語活動の授業を長く研究してきた教師と、全く経験のない教師が、「児童英語教育」に関する本を読む場合では理解の仕方が違う。
 ましてや、様々な年齢構成で、異なる学年や教科を担当し、研究対象としたい興味・関心が異なる「教師集団」が、同じ本を読んでも全く異なった理解をしていることがあるはずだ。 

 つまり、読解するには前提条件として「事前に獲得している知識」が必要だということである。(つづく)

(だから、研究のリーダーは、メンバーが同じ本を読めば同様に理解できると考えてはならない。以前、ある教師から、研究会の席で「本を読んでから、ものを言え」と言われたことがあった。本を読んでも、その教師と同レベルまで理解できない人々にとっては、「ものを言うな」と言われるのと同じことだ。このような研究会では、メンバーが黙り込んでしまうだろう。愚かなリーダーは、それをメンバーの責任にしてしまう。自分が読書家であることを自負しているだけに始末が悪い。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 8日 (木)

学力と授業方法 その3

 学力を高めるために効果的であると思われる授業方法を整理してみる。今回は国語科にしぼって考えてみる。
 まず、以前からずっと言われてきていることではあるが、以下のことは必須条件であろう。
(1)音読指導(正確に明確に流暢に読めること)
(2)漢字指導(漢字を正確に読み書きできること)
(3)読書指導(興味をもって読書に親しむこと)
(4)書写指導(正しく美しく文字を書けること)
 これらは、日常的に反復して習熟させなければならない。しかも、(1)から(4)のどれをとっても様々な方法があり、奥が深い。しかも、授業中に位置づけなければ意味がない。家庭学習にまかせていては身に付かない。
 低学年のうちから徹底して指導しなければならないので、毎日3分から10分程度の時間帯をもうけておくとシステム化できる。
 重要なことは、一人一人の子どもたちの習熟度を教師が把握しているかどうかである。漢字は小テストなどで把握することができるが、音読、読書、書写などは個別に評価していくシステムがいる。簡単で継続可能なシステムがなければ、「指導したつもり」のままになってしまうだろう。たとえば、一斉指導として「書写」をさせながら、個別に「音読」を教師が評価していくようなことも必要だろう。

 これらは「基礎的な学習」だと言えよう。小学校の場合、このような学習を授業の中に、きっちりと位置づけなければならない。多くの現場教師は、こうした学習を重要だと考えているはずだ。反復練習も、また「授業」なのである。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 7日 (水)

学力と授業方法 その2

 学力と授業方法は密接な関係があるはずなのに、いつのまにか「学力観」の話や「教育課程論」の話になってしまう。授業の中身があまり語られないのはどういうわけだろう。

 学校の現場にいて思うのは、「授業とは、かくあるべし」と一言が語られるようなものではないということだ。スローガンとして大切なことは分かる。「学習から学びへ」「子どもと共に学ぶ授業」「子どもが主役の授業へ」「かかわりあいのある学習」といったことは間違ってはいない。だが、一方では「基礎基本の定着のためには反復が大切だ」「授業を設計するのは教師だ」といったことも、また真実なのである。

 授業は、児童・生徒の発達段階や教科の目標、さらには単元の目標や1時間ごとの目標によって、大きく方法が異なる。
 小学校一年生で行う授業と中学校三年生で行う授業が、一つのキーワードが語られるはずがない。
 また、教科によってねらいが異なる。たとえば、小学校家庭科には「日常生活に必要な基礎的な知識と技能を身に付ける」という教科の目標がある。授業において、いかに子どもが主役であっても、かかわりあっていても、知識も技能も身に付いていなければ本末転倒だと言えよう。
 他にも「反復練習は子どもがいやがる」という先入観があるが、それはやり方次第なのではないか。私が現在担当している子どもたちは、漢詩やことわざなどを楽しそうに反復しながら音読している。子どもの発達段階と、内容や方法を前提に、授業の方法論を語るべきなのである。

 現実的に、授業で子どもたちに学力をつけさせるためには、繰り返し反復させて習熟させる場面も必要だし、あえて正答のない問題を知恵を出し合わせ解決させていくような場面も必要なのだ。一つのキーワードや指導方法に、現場はゆれてはならない。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 6日 (火)

学力と授業方法 その1

 学研の「NEW教育とコンピュータ」2007年3月号に、「能動的に学習する授業と教師のフォローが学力の高い子どもを作る!」と題したレポートが掲載されている。広島大学大学院の山崎博敏教授のものだ。

 教師の授業方法と子どもの学力の相関関係を示したグラフが興味深い。
 児童生徒が受け身になる授業では学力が高くはならない。逆に、児童生徒がよく質問したり発表したりする授業では学力が高くなる。
 また、朝の始業前の学習や読書の時間が充実していると学力が高くなる。ドリルやプリントなどの基礎的な訓練も効果が大きい。
 おもしろいのは、宿題と学力の関係だ。宿題の量と学力の相関関係はそれほど高くないのだが、教師が宿題をよく見るかどうか、ということと学力の相関関係は高い。教師の評価が重要であることを示している。
 また、話し合いの効果も興味深い。グループで話し合ったり学級で話し合ったりする授業が多いと、小学校では学力が高くなるのに、中学校では必ずしもそうではない。

 われわれ教師が漠然と感じているものを、このような調査で明らかにしてあると、授業の改善に役立つ。日々の授業の積み重ねが学力を高めていくものになるはずである。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月14日 (水)

教師力向上のために その13

 授業評価を難しくしていることの要因の一つは、評価の規準が教師によって異なることだ。
 それは、指導方法が、教師の教育理念を具現化されたものであるからだ。だから、出版され全国的に広がっている方法であったとしても、賛否両論が存在する。
 だから、評価者によって授業はどのようにでも判定されてしまう。授業の評価規準は、教師によってばらばらなのである。
 しかし、私は、それでよいと考えている。
 なぜならば、評価規準そのものも評価され、改善されるべきものであるからだ。
 たとえば、小学校英語活動の授業への評価規準を作成するとしよう。とりあえず、以下のものを考えてみる。
(1)教師がオール・イン・イングリッシュで授業をしている。
(2)流れるように授業が展開している。
(3)子どもたちが正確な英語を聞いている。
(4)子どもたちが熱中している。
(5)子どもが英語を聞いたり話したりしている時間が確保されている。
 45分の授業の中で、上記の評価規準をクリアしており、子どもたちが楽しそうに活動していれば、とりあえず「よい授業」として評価されるのだろう。
 しかし、この形態での授業を3年生から6年生までやっていったとすれば、子どもたちの中には、意欲を示さなくなる児童も出てくる。また、そもそも、そのような授業を継続することによって子どもたちの何の力を高めていくのか、ということも不明瞭になっていく。私自身、小学校英語活動のカリキュラムを練り直すのに5年を要した。授業を評価する場合、45分だけでは見えないことがたくさんあることを実感した。
 また、新しい視点を取り込んで授業づくりを行うこともあるはずだ。たとえば、プロジェクト学習のスタイルで英語活動の単元を構成したとしよう。留学生との交流会を成功させるために英語や相手の母語を学んでいく、という形態にした場合、上述した5つの評価規準はあてはまらない。
 だから、授業を評価する規準そのものも、常に評価され改善されていくべきものだと思う。授業の評価規準に絶対的なものはありえない。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月13日 (火)

教師力向上のために その12

 教師が、自らの「型」を身につけるためには、思いつきレベルの授業を繰り返していてはだめなのだと思う。どうすれば、自らの「型」を身につけることができるのだろうか。

 研究授業を見てもらって批評してもらうのは良い方法ではあるが、1年間にそう何度もあるわけではない。一般的な教師で、せいぜい1度か2度ではないだろうか。研究授業だけでは不十分なのだろう。
 先輩教師にふだんの授業を見てもらってアドバイスを受けることも良い方法だと思う。ただ、先輩教師とて、全ての教科に精通しているわけではないし、授業観も教育観も異なる。授業を評価する規準も違ってくる場合もある。
 研究会などで、模擬授業を見てもらうのも良い方法だ。短時間の授業における教師の所作や教材研究を評価するのには良いと思う。しかし、総合的な学習のように長いスパンの学習であれば、必ずしも授業評価ができるわけではない。

 では、どうするか。
 多くの優れた先達が、間違いなくやってきたことがある。それは、振り返るということだ。その日に行った授業がどうだったのかを、きちんと振り返る時間をとっていた。単純に思い出すだけでは、いつかは消えてしまう。したがって、授業記録を書いていく必要がある。つまり、「書く」ということだ。
 評価規準は、授業のねらいと子どもの姿である。毎日、毎日、「書く」ことを繰り返していく。このアウトプットを続けるためには、インプットも続けなくてはならなくなる。その姿が、教師の「学び」になるのではないだろうか。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月 8日 (木)

教師力向上のために その10

 手放せない本がある。
 大槻幹雄先生遺稿「父親としての愛の書簡集-継ぎゆく者への魂をこめて-」(大槻先生遺稿刊行会)
 熊本で活躍をされた大槻幹雄先生が、教師となった息子の身信さんへずっと送り続けられた励ましの手紙を集めたものだ。だから、教育書として出版されたものではない。しかし、内容の深さと豊かさでは、教育学の本よりもはるかに勝る。
 当然、非売品だ。新任一年目のときに同僚だった大先輩の女先生に「読んでごらんなさい。」と言われて貸していただいたものだ。その日の夜に読み終わって感動した。次の日に、その女先生に返しに行ったら、「私がずっと持っているよりも、あなたが持っていた方が価値があるはずだから、あなたにあげましょう。」と言われてもらったものだ。だから、本の裏にはその先輩の記名がしてある。

 20代のときに読んだときは、教師になったばかりの身信さんの気持ちで読んだ。しかし、最近読み返してみると、父の気持ちになって読んでいることを感じた。心に残る箇所に付箋紙を貼っていたら、付箋紙だらけになってしまった。

 次の文章がある。
**********************
 授業とは芸術なり。
 授業は個性なり。
 授業は科学なり。
 授業はその人の影の投影であって、他の模倣すべからざるものをもっている。故に授業者の個性が輝き、創意が輝き、科学的思考が輝く。つまり人格が輝く。そのとき「教育」ということが生きる。
***********************
(つづく)

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年2月 7日 (水)

教師力向上のために その9

 現在は、学級担任ではないので、たまに自習の監督に行くときがある。先日の6校時、学級担任が出張中の3年生のクラスに行くことになった。
 自習課題はドリル。教室に入る前は、私は、何か面白い学習ゲームをしてやるのもいいな、と考えていた。漢字のゲームや言葉遊びなども楽しい。

 教室に入ってみると、子どもたちはすでに静かにドリルを行っていた。私は、しばらく様子を見ることにした。
 子どもたちは私がいるせいか、少し緊張気味に問題を解いている。25分をすぎたほどで、数名の子どもたちが、退屈したのか、手遊びを始めた。私は、一言「このクラスは、しずかだねえ。」とほめた。また、熱心にやりはじめた。
 40分すぎたところで、黒板右側に向かって私は一本の曲線をひいた。子どもたちは「何がはじまったのかな」といった様子で見ている。曲線は、つながっていって何かの動物の形になっていく。「何?」「イヌかな?」「ネコ?」などの小さな声が後ろから聞こえてくる。
 何の動物か分からないようにしておいて、黒板の左側に次のように書いた。
 「○○先生(担任)へ。このクラスは、とっても静かに自習がー」
 「自習がー」で、止めた。また、子どもたちは、静かになる。
 さらに、右側の動物にタテガミを書き加えた。後ろから「あっ、ライオンだ!」という声が聞こえてきた。ついでに、その横にウサギを加えた。ライオンとウサギが会話をしている絵にしたのである。
 そして、チャイムがなるのと同時に黒板左側の文章に書き加えた。
 「○○先生(担任)へ。このクラスは、とっても静かに自習ができました!」

 20代の私だったら、授業の前半か後半に学習ゲームを入れただろう。たしかに、そうやれば子どもたちは楽しむことができただろう。「楽しい学習ゲームをやってくれた先生」として印象に残すこともできただろう。
 しかし、自習の時間にだまって静かに問題を解くという「担任教師の思い」は薄くなってしまうはずだ。ドリルもまた大切な学習である。
 教師は、授業の方法をいくつか獲得しはじめると、その方法を使いたくなる。しかし、方法をさらに持つと、わざと使わない場面も作り出せる。それは、授業のねらいと子どもの状況に応じて臨機応変に対処することができるようになるからだろう。
 ここでは、泡沫的な学習ゲームをやるよりは、黙って自習を行った子どもたちを具体的に評価することを優先させた。次の機会も黙って自習ができるクラスになっていくだろう。「教える」と「育てる」の違いがあるような気がする。

 次の日、学級担任が笑顔で「先生の絵、デジタルカメラで撮影しました!」といって見せてくれた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月31日 (水)

教師力向上のために その8

 新しい授業のアイデアをもって教室に入るときは、常に緊張する。教師の方が、「わくわく」するし、「どきどき」する。「うまくいくかなあ。」「どんな反応をするだろう。」などと思う。このようなときは、失敗があったとしても、子どもたちは教師の創造的なエネルギーを感じてくれる。
 昔やって成功した方法で授業にのぞむときは、この「わくわく感」「どきどき感」がない。自分にも物足りなさが残る。
 授業に対するこのような緊張感は、いくつになっても変わらない。

 目の前にいる子どもの様子を見ながら、それに合わせていくことが教師には求められている。唯一絶対の方法は存在しない。
 だからこそ、幅広く方法論を身につけながらも、常にそれを検討し、場合によっては否定しなければならない。自分が身につけた方法論を否定することは、ある意味では勇気がいることなのだろう。でも、ひょっとしたら、子どもの事実を見つめながら、ある意味では現状を破壊しながら、常に新しい授業を創っていくことが「教師の仕事」なのかもしれない。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月30日 (火)

教師力向上のために その7

 2004年度は自分自身が6年生の学級担任となった。そこで行ったことは、英語を学ぶ学習ではなく、コミュニケーションを行う目的で英語を使う学習に切り替えたことだ。
 様々な国々の人々との交流会を企画し、その目的で英語と相手の母語を学習する。外国人にも分かりやすい日本語も使う。交流会は成功し、子どもたちの満足感は極めて高いものになった。7月末のアンケート調査でも、5年時よりも「英語活動に対する楽しさ」が高くなっていた。
 自分が伝えたいことを外国語で行うという学習はハードルが高かったが、子どもたちはよく協力してがんばった。何よりも、自分たちが学習した外国語が相手に通じたという喜びが大きかったのだろう。

 方法論は極めて大事だと思う。私がハウトゥを見下さないのは、最良と考えられる「方法」を実際に行ってみることが重要だと考えるからである。実際に行っているからこそ、その課題を見つめ直すことができる。
 しかし、その「方法」が、教育の目的に合っているのかどうかは常に検討されなくてはならない。

 大学時代、教育実習の時に担当して下さった先生からもらった本がある。教育実習の最後の日に、夕方の教室で、その先生が「よくがんばってくれたから、この本をあげます。」と言って三冊の本を手渡して下さった。今でも大事にとっている。
 小原國芳著「師道」「理想の学校」「全人教育論」(玉川大学出版部)の3冊である。
 40代になって、あらためて読み直すと、全く違う本に見えるから不思議だ。「理想の学校」の中に次の文章がある。
**********************
 如何に方法は有効で卓越でも、第一に目ざす理想がとんでもない方向へ向かっていたら大変である。マチマチの新学校が、教育の方法論に腐心しておられる。何よりフシギで、何より恐しいことである。why,what,how なぜ、何を、如何にということが、教育の大事の仕事であろうが、私は如何にという教授方法を度外視はしない。しかし、それよりも、ナゼという目的論を、非常に大事にしたい。そこに「教育の根本問題」を強く叫ぶ理由がある。結局、多くのやっておられることが梶なき船みたようなものではないかと思われる。日本の教育が末梢的だと常に叫びたいワケである。
**********************
 昭和46年に出版された本であるが、今でも十分通用する。(つづく)Eigokatsudou2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月29日 (月)

教師力向上のために その6

 教師が毎日の自分自身の授業を振り返るとき、「今日はうまくいった。」「今日は今ひとつだった。」といった感想をもつ。これは、きちんと振り返っていると言えるのだろうか。

 2002年度以降の研究テーマは、「コミュニケーションの意欲を高める国際理解学習」ということにした。なぜならば、「英語活動は楽しいですか?」という意識調査の結果を見れば、意欲が減退しているのは明らかだったからだ。
 2003年度は、6年生の子どもたちにロールプレイを取り入れた。しかし、意欲を向上させることはできなかった。(表参照)当時の研究紀要に私は次のように書いている。成果が出なかったことを正直に記していた。
**********************
 ロールプレイとは,役割を決めて演技を行うことである。たとえば,「レストランのウエイターと客」という役を決めて,その状況での演技を行う。この学習のメリットは,実際の会話に近くなるということである。客は店員に要望を伝えなくてはならないし,店員は,それに応じなければならない。このような会話のやりとりによって,自己決定感を高めていこうというものである。
 しかし,学習意欲を高めるところまでには至らなかった。その理由は,子どもたちの語彙が少なく,表現しようとしても言葉が出てこないので,もどかしさを感じていたからである。また,ロールプレイは学習のゴールが不明確であり,子どもたちの満足感を十分高められなかったのである。
***************************
 もしも、「英語活動をどう教えるか」という方法論だけに意識が向いてしまっていたら、「教師はAll in Englishで話していたか?」「楽しい活動を組み込むことができたか?」「テンポ良く授業がすすんでいったか?」「子どもが英語で会話をする時間を十分にとれていたか?」といった評価基準でしか授業を見直すことはできなかっただろう。
 その基準で授業を組み立てていけば、教師の巧みな指示とパフォーマンスで、流れるような授業にはなっていったかもしれない。教師の間では、一見、すばらしい授業に見えるだろう。しかし、子どもの実態に応じるものではなくなっていっただろう。
 教師は、授業に対する課題に対して、「それをどう教えるか」ということと同時に「そもそも、それは何なのか」「そもそも、なぜ、それなのか」ということを考えなくてはならない。

 教師が自分自身の授業を振り返るとき、実は「自分の授業観に基づいた評価基準」で振り返っているのである。これは授業の発想を狭くしてしまうと同時に、独りよがりの授業者になってしまう危険性をもつ。そう考えると、自分自身の「授業観」そのものも検討しなくてはならないのだろう。授業を測る「ものさし」は、いくつもあった方がよいのである。(つづく)Eigokatsudou1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月28日 (日)

教師力向上のために その5

 明日の授業の準備をするためには、どう教えるかを知らなければならない。このことに間違いはない。問題は、その方法が本当によかったのか、ということを教師自身が振り返ることができるかどうかである。

 今から8年前、1999年度から私は総合的な学習の専科教師となった。コンピュータの指導と管理運営を行いながら、英語活動の指導計画・指導案・教材の作成を行う仕事である。1学期は特に忙しくて、月曜日の1時間目から金曜日の6時間目まで、ぎっしりと授業が入っていた。
 英語活動の場合、私が指導案を作成し、担任に授業をやってもらった。後ろから授業を観察して、改善案を練り上げていくのが私の役割だった。
 当時、小学校英語活動の指導方法を書いた本を参考にした。どの本も、歌やゲームを中心とした楽しい活動であった。これなら、子どもたちもきっと楽しく英語を学ぶことができるはずだ、と思っていた。改善策を練っていくうちに、一つの活動を5分から10分ほどの短いものにしていくことも分かってきた。ALTがいても、担任が英語で話すことが子どもたちのモチベーションを高めることも感じていた。最初の1年目は、3年生から6年生まで、この新しい「学習」を楽しんでいるように思えた。
 しかし、2年目の後半から、子どもたちが以前ほど楽しんでいないように感じてきた。4年生の3学期からは、女子の数人がゲームに対して喜んだ表情を見せなくなってきたのである。5年生になると、それが他の子どもたちにも広がっているようにも思えた。3年目には、上司から「小学校英語活動の本を出版してみてはどうか」という意見ももらったが、私は断った。自分が作成した指導計画と指導案に納得できなかったからである。
 専科教師としての4年目。週に一回3年生から英語を学習してきた子どもたちは6年生になった。しかし、子どもたちの「英語を話す力」はついたのか、はなはだ疑問に思った。

 私は次のことを考えるようになっていった。
 ○ そもそも、小学校の英語活動で「英語を話す力」はつくのか。
 ○ そもそも、小学校の英語活動がめざすものは何なのか。
 つまり、「英語活動をどう教えるか」ということから、「英語活動がめざすものは何なのか」ということを考えるようになっていったのである。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月27日 (土)

教師力向上のために その4

 小学校教師をしていると、常に「明日の授業は大丈夫?」と誰かにせかされているような気分になることが多い。それが多忙感を増している原因の一つではある。
 たとえば、明日は6時間の授業があるとしよう。午前中は、国語、算数、音楽、英語活動、午後からは道徳と体育が予定されている。限られた時間で、その6時間分の授業の準備をしなくてはならない。すべての授業に十分な教材研究ができることは不可能だろう。なぜならば、教材研究はいくやっても十分ということはないからだ。
 そうなると、とにかく「指導方法」が必要になる。「どう教えるか」ということである。まず指導書を読むことが多い。また教育書のいくつかも開いて読むはずだ。
 そして、当日は6時間分の授業を行うことになる。休み時間といえども、次の授業の準備で休むことはできない。宿題もチェックしなければならない。昼休みといえども、ゆっくりする時間はない。怪我をする子どももいれば、気分が悪くなる子も出てくる。けんかやもめ事もあるだろう。それらに対処しながら、怒濤のように時はすぎて、子どもを帰す時刻は午後4時以降になる。
 ふりかえってみると、それなりにうまくいった授業もあれば、今ひとつ子どもがのらなかった授業もある。「ちょっと発問がまずかったなあ」などと反省しながらも、すぐに明日の授業の準備をしなければならない。(それができればまだよい方だ。部活動の指導をしている教師は、振りかえる余裕も準備をする時間もない。)
 そのような日々が繰り返されるようになる。教師は自分の仕事を真面目にやっている。自分で考えても、まわりから見ても、「真面目で熱心な教師」にまちがいない。
 しかし、本当にそうだろうか。知らないうちに、一つのサイクルができあがってしまっているのではないか。「明日の授業の準備をすること」と「どう教えるかを知ること」がイコールの関係になっていて、二つを往復するだけのサイクルになってしまっているように思える。この往復で、教師力は向上するだろうか。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月25日 (木)

教師力向上のために その3

 話は、ちょっと逸れるが、最近の民放の報道番組は、「誰かを非難すること」が圧倒的に多い。
 つい最近まで、テレビ番組は、いじめによる自殺問題一色であった。ある番組の司会者が、自殺問題に対する学校の対応のまずさに対して、「馬鹿校長・馬鹿教師」と言い切った。
 報道が続くと、自殺者が増加した。また、いじめ問題が発覚した学校では学校長が自殺するという事件が起きた。番組の司会者やコメンテーターは、一体どの程度、事件の事実や学校の現場を知っているのだろう。非難することで社会は良くなったのだろうか。
 WHO(世界保健機構)は、「PREVENTING SUICIDE:A RESOURCE FOR MEDIA PROFESSIONALS(メディア関係者向けの自殺予防の手引き)」を公表している。
http://www.who.int/mental_health/media/en/426.pdf
 メディアが「やるべきこと」と「やってはいけないこと」が詳細に記されている。
 その中に以下の文章がある。
Suicide should not be reported as unexplainable or in a simplistic way. Suicide is never the result of a single factor or event. It is usually caused by a complex interaction of many factors such as mental and physical illness, substance abuse, family disturbances,interpersonal conflicts and life stressors. Acknowledging that a variety of factors contributes to suicide would be helpful.
「自殺に関しては、説明できないこととして、あるいは単純化して報道してはならない。決して一つの要因や出来事で自殺がおきているわけではない。自殺は、通常、精神的身体的な疾患や薬物乱用、家庭内不安、対人葛藤、人生のストレスといった複雑な要因によって引き起こされている。様々な要因が原因になっていることを認識することが有用なのである。(訳:前田)」

 いじめ自殺問題に対するマスコミの責任は問われなくていいのだろうか。

 最近の民放の報道番組の手法として、いくつかの新聞記事を掲示して、アナウンサーが読み上げるというパターンが圧倒的に多い。しかも、司会者とコメンテーターとよばれる人達が、思いつき的な感想を言い、誰かを非難し怒ってみせる、という流れで番組は進行していく。言うまでもないが、新聞記事は二次情報である。それを取り上げて、コメントをつけるということは「三次情報」を報道していることになる。報道のあり方はそれでいいのだろうか。現場に行き、事実を詳しく調べ、社会を良くするために報道は行われるべきではないのか。
「社会を良くする」という目的ではなく「視聴率を稼ぐ」ことが目的になっている番組が多いと感じるのは私だけだろうか。(つづく)

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2007年1月24日 (水)

教師力向上のために その2

 教師の実質的な勤務時間を考えてみる。午前7時〜8時から午後6時〜7時くらいが平均的なところだと思う。もちろん、部活動や生徒指導の時間にそれらが加算されていくとしても、民間企業のそれと比較して特別に多いというわけではない。
 それでも、教師の多忙感は払拭できないし、心労による退職者・休職者は増加する一方である。なぜなのだろう。
 「やらなくてはいけないこと」「社会が求めていること」に対して、教師が「やれること」が時間的にも能力的にも十分ではないと感じているからでははないだろうか。だから、多忙感も心労も増すのだろう。
 それに加えて、マスコミは、教育問題の多くの責任を、文科省・教育委員会・学校に求める傾向にある。もちろん、それらの責任は大きいが、家庭教育や社会の問題として取り扱われることはまれである。ためしに「学力低下はゆとり教育が原因である」と批判をしている人に、「どの学力がどのように落ちているのですか。」と質問したことがある。その人は、答えられなかった。マスコミの批判をそのまま「自分の意見」にしてしまっているのである。
 このような状況が続くと、教育者としてのモチベーションそのものが低下してしまうのではないか。「情熱のない教育」が進行してはならない。
 教師にとっては、現在の逆境をはね返す「強さ」が必要なのだ。(つづく)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年1月23日 (火)

教師力向上のために その1

 昨今、教師の資質向上が特に叫ばれるようになった。
 教員免許の更新制度も検討されている。
 「教師力」の向上が求められているのである。
 そのためには、教師自身が自ら能力開発を行う必要もあるし、そのシステムや環境を整える必要もある。

 能力開発のために教師が行うべきこととして、次のことがよく言われる。
(1) 本を読むこと
(2) 研究授業を行うこと
(3) 研究会・研修会に参加すること
 しかし、程度の差はあれ、これらのことはほとんどの教師がやっているだろう。これらのことさえやっていないとすれば、教師としての基本的な資質に欠けていると言わざるを得ない。

 問題は、現代の教師に求められていることが多くなっているということだ。保護者の価値観も多様化している。家庭の教育力の低下も著しい。児童・生徒の問題行動へも対処しなければならない。急速に発展している技術も取り入れる必要がある。
 学力観も以前とは大きく変化してきている。生涯にわたって学習し続ける能力と意欲を持った学習者を育てることが求められるようになった。情報教育・キャリア教育・食育といった、「○○教育」も増えている。総合的な学習のように、学校独自のカリキュラムをもつ学習もデザインしなくてはならない。

 このような状況においては、上述した三点だけでは教師力の向上は難しい。ニーズに能力が追いついていないのである。
 では、どうすればよいのだろう。(つづく)
 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年1月 3日 (水)

謹賀新年〜本の読み方〜

 adakenさんから次の質問がありました。
「毎月30冊の読書というのは,1日1冊のペースですね。毎月10冊の目標がなかなか達成できなかった私には,驚異的な数です。どこでその時間を取られるのでしょうか?」
 職場でもよく聞かれる質問です。せっかくなので、私の「本の読み方」を紹介します。すごく特殊なので、ほとんど参考にならないと思いますが・・・。

(1)本は買ってもすぐに読まない。
(2)やさしい教育書や新書は自動車の中で読む。
(3)専門書は休日に集中してまとめて読む。
(4)ビジネス書は「ながら読み」。
(5)部分読み、とばし読み、読むこと中断、OK。

 私の場合、本は買ってきたら、ぱらぱらとめくって内容を確認して椅子のすぐ左側に置いてある回転本棚に入れっぱなしにしておきます。そんなものがどんどんたまっていきます。とにかく、まずストックすることを最優先にします。だから、東京に行ったときには、必ず本屋に行きます。(平均すると、月1回くらいは行ってます。)出張先によって場所は違いますが、新宿だったら紀伊国屋、東京駅周辺だったら八重洲ブックセンター、神田だったら三省堂と書泉グランデです。一度に買ってしまうので、本代を多めにもっていきます。本を入れるための折りたたみ式のバッグももっていきます。羽田空港の小さな本屋さんにもよります。何気なく手にした本で人生観が変わることもありましたから。

 企業に勤めていらっしゃる方からすすめられた本は必ず買います。学校関係者と違う視点が得られるからです。研究会などで大学の先生と会うことがあらかじめ分かっているときは、会う前に必ずその人の著書を買います。どういう本を書いている人なのかが分かっていると、話がしやすいからです。こんなときに、ネットを使って本を買います。

 本は、大きく三つに分けて読んでいます。まず、やさしい教育書や新書。これは、自動車の中に入れておきます。今は、通勤に往復2時間近くかかっています。渋滞が一番はげしい道を通らざるをえないからです。そこで、渋滞中に読んでます。「馬鹿の壁」とか「国家の品格」みたいな一応ベストセラーになったものは興味がなくても自動車の中で読んでます。新書や文庫は必ずどこかに入れてあります。人間ドックのときも、待っている間の数分の時間も読んでます。この細切れの時間は、けっこう馬鹿にできません。

 次に、ちょっと難しい教育書。集中して読むべきものは、休日に一気に読みます。土曜日の早朝からが多いです。たとえば、ヴィゴツキーの「教育心理学講義」「思考と言語」などは、まとめて読んでいきました。集中しないと分からないからです。部屋を暗めにして机上の電気スタンドだけつけて、本当に集中します。蛍光ペンと付箋紙をがんがん使います。ただし、1冊をずっと読むと疲れるので、1冊に疲れたら、途中で別の本に切り替えたりします。継続して読む本もあります。同じカテゴリーの本をまとめて読むと一度にたくさんの知識が得られます。

 最後はビジネス書。これは、「ながら読み」が多いです。夜寝る前などにも読みます。最近は自宅で運動することにしましたので、運動器具を使いながら読むことが多くなりました。これは、運動もできるので一石二鳥です。(^_^) ビジネス書は、部分読み、とばし読みは、どんどんやります。読んでもどうせ忘れるからです。読んでいて面白くないな、と思ったら途中でも読むのをやめます。読む時間がもったいないからです。買ってから読まなかった本もあります。そうかと思うと、何度も読む本もあります。たとえば、野口悠紀雄さんの「超文章法」「超発想法」などは読むたびに発見があるので、ときどき読み返します。

 だから、「毎月、30冊程度の本を読む」というのは、「毎月、30冊程度の本を買う」のとは違うのです。「部分読み」「継続読み」「読み返し」などを含んでいます。積ん読、乱読状態です。あまり参考にならなかったでしょ。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2007年1月 2日 (火)

謹賀新年〜今年の抱負〜

 新年にあたって、今年の抱負を記しておきたいと思います。
 全般的に考えていることは、仕事の量を減らして質を高めていくことです。家族のことは最優先で考えていきたいと思っています。昨年は、仕事をしながら大学院に通っていましたので、正月は論文の執筆に没頭しておりました。今年もまた何か新しいことに挑戦してみたいものです。

1、短期的な目標(一日〜一ヶ月レベルの目標)
 その1:毎朝、原稿を執筆する時間を1時間つくる。
 その2:毎晩、子どもと一緒にすごす時間を1時間つくる。
 その3:毎月、30冊程度の教育書・ビジネス書を読む。
 その4:毎月、一定額の貯金を行う。
 その5:毎日、20分は楽器の練習をする。
 その6:毎日、30分は運動の時間をもうけて標準体重にする。
2、中期的な目標(半年〜1年レベルの目標)
 その1:今年の6月までに、教育用イラスト集めたWEBサイトを立ち上げる。
 その2:今年の6月までに、単著を出版する。
3、長期的な目標(10年以上のレベルの目標)
 55歳をすぎても(定年退職後も)十分に生活できるだけの仕事を見つけて、その準備をする。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年1月 1日 (月)

謹賀新年

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 このブログも、毎日100人から200人くらいの方々より定期的にアクセスがあります。多いときは400人のアクセスがありました。大変ありがたく思います。
 授業について学んだことや考えたことを、少しずつ書いたものです。自分の授業をふりかえるための記録の意味で書いてまいりましたが、今でもその目的は変わりません。自分のために書くので、長続きするのかもしれません。

 授業を研究することは面白いですし、やればやるほど、その奥深さを痛感します。とても「良い方法」を知って、それを使いこなすことも必要なのでしょうが、子どもたちとのやりとりの中で新しい授業を創っていくことも大切だと思います。教師が何か新しい授業に挑戦していくとき、子どもたちも敏感に感じ取るからです。

 ブログの記録を読み直していくと、自分の授業の特長が浮かび上がります。
 まず、第一はプロジェクト型の協同学習が多いということです。中学年では3人、高学年では4人のグループで学習のゴールを達成できるようなスタイルをとります。一人一人がかかわりあいをもたざるをえなくなります。
 第二は、メディアを使うことが多いということです。しかも、メディアを介して考えさせることが多くあります。たとえば、デジタルカメラの写真の中から順番を考えながら選ばせたりするような活動です。
 第三は、学習せざるをえない状況を作り出すことです。明確なゴールに達成するためには、それぞれが自らの役割をきちんと果たさなくては先に進みません。いいかげんな作業はできません。ゴール設定と役割がポイントです。
 第四は、教師が子どもたちの「壁」となることです。「みんないいね」という評価はしません。「これでは伝わらない」「何のためにこれを書いているの?」と厳しい評価をします。この苦しい壁が子どもを成長させると思います。
 第五は、文章を継続的に書かせて評価することです。自己評価のための3分の時間は必須です。「やったこと」ではなく「学んだこと、考えたこと」を書かせます。一つの単元が終了すると子どもの文章が多く残ります。

 書くことは考えることであり、考える授業を創り出していくためには、まず教師自身が文章を書くことが必要だと考えています。このブログは、その意味では自分自身の思考力を高める意味を果たしているのでしょう。
 年をとっても、授業研究に対する情熱は新任のときと少しも変わりません。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2006年12月 7日 (木)

批判的思考力 4

 批判的思考力は相手を攻撃するためのものではなく、自らの思考を深めるためのものだ。

 ある教師が、ある指導法を提案したとしよう。それを、そのまま受け止めてしまう人も多い。すると、どうなるか。その指導法をいかにうまくやるか、ということだけに思考が流れていきやすい。たとえば、学校の研究主任が「子どもの思考力を高める取組としての小人数によるグループ学習指導」を提案したとする。提案を受ける側に批判的思考力がないと、グループ学習をうまくやる「方法」にばかり意識が向かってしまう。「どうすれば、子ども一人一人が意見を言うだろうか」「どんな課題にすれば、いいのだろうか」ということにエネルギーがそそられていく。すると、肝心な「何のために少人数によるグループ学習をやるのか」という本来の目的から、どんどん離れていくことも起こりうる。
 一方、そのような研究主任の提案に対して、「理解できない」という形での反論をする人もいる。たとえば、「少人数にする意図が分からない」「グループ学習にどのような意味があるのか」という形で反論するといった具合である。このような人たちは、単に「批判」をしているだけであって、「批判的思考」をしているとは言えない。こんな形の反論だったら誰でもできるのである。相手のせいにしてしまえばすむからだ。結果としては何も残らない。

 批判的思考を行うには、情報を吟味することが必要である。そのためには、まず、「問い」を自らに課さなくてはならない。たとえば、「少人数によるグループ学習指導には、どのような意味があるのか。」という、提案に対する自分なりの「問い」をつくることである。
 また、情報を吟味するためには「知識」も大切だ。だから、関連する書籍や資料を収集したくなる。集団思考や協同学習関連の書籍も必要だろう。心理学の書籍も読んでみる。すると、子どもが集団で学ぶ意義が見えてくる。自分なりに納得できる状態になったときには、ずいぶんと知識が増えているし、思考も深まっているはずだ。そうすれば、実践を創っていくときに、本質からぶれない。自分が納得しているからである。
 このように、批判的思考力とは自らの思考を深めるためのものなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 5日 (火)

批判的思考力 3

 批判的思考力とは、相手の欠点や問題点を指摘する力ではない。一言で言えば、「情報を吟味し、熟考する力」と言えばよいだろう。
 だから、研究会などで、誰かの指導法や理論を批判する場合、よほど気をつけてやらないと、「批判する側」の「批判的思考力」の無さを公に暴露にしてしまうことになる。
 ある指導方法を批判しようとするときに、一つの授業だけを取りあげて批判しても、指導方法全体を批判したことにはならない。批判の対象になるのは、あくまでも「その授業」だけだ。
 たとえば、誰かが行った小学校英語活動の授業を例に出して、「小学校英語活動は効果がありません。」と言っても論拠が乏しい。言えることは、あくまでも「その指導法による小学校英語活動の授業は効果がありません。」ということだけなのである。
 このように、「どのような理由でどのような結論を述べているのか」ということを客観的に考えていくことが、批判的思考力を高める第一歩なのだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月 3日 (日)

批判的思考力 2

 ハワイ大学の講義の中で「宣伝広告」の話題があった。TVコマーシャルでは,次の手法がよく使われているのだという。
(1)視聴者の不安を煽る
 「あなたの口臭は大丈夫ですか?」といったものだ。見ている人間は不安になる。口臭予防歯磨きを買いたくなってくる。この手のものは,健康食品や医療品に多い。「ほうっておくと,とんでもないことになりますよ。」というキャッチコピーもそうだ。
(2)権威ある人間を登場させる
 白衣を着た医者が登場することもよくある。○○大学の「専門家」という肩書きが書いてあって,その医療品や食品を推薦するわけである。これは書籍の宣伝でもよく使われる。「○○先生,推薦の書」というやつだ。
(3)相手と比較する
 日本では,あまり見られないが「比較広告」というものだ。ライバル会社の商品を批判して,自分の会社の商品をよく見せる。日本では,「当社比」などとして,以前の商品と比較することが多い。

 さて,こういったことは,教育界でもよく使われる。様々な学会や研究会などで配布される「教材の案内」「研究会の案内」なども,こうした方法が使われることが多い。たとえば,以下のような言葉で宣伝されていることはないだろうか。
(1)「あなたの指導法は大丈夫ですか?」
(2)「○○審議会の○○先生も推薦されています。」
(3)「○○指導法では,力をつけることはできません。」
 宣伝の「内容」を読むだけではなく,宣伝の「方法」を読み取ってみると,別の視点で思考することができて面白い。(つづく)

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年12月 2日 (土)

批判的思考力 1

 よい本を読んだ。柴田義松著「批判的思考力を育てる」(日本標準)だ。特に「学びの共同体」論をきちんと批判してあるところが面白い。
 どういうわけか,教師の中には,東京大学系の教育学者の理論をそのままひっぱってくる人が多い。「○○先生が言うから正しいのだ」という主張なのだろうが,ちっとも理論的ではない。その理論を元にする理由が語られていないからである。本人たちが「自分たちはアカデミックだ」と思いこんでいるから,なおさら始末が悪い。
 私は,自らの理念と自らの授業に基づいて,自らの理論を導くことがアカデミックなのだと思う。そのためには勉強も必要だ。勉強のために様々な理論を知ることは大切なことではあるが,勉強した理論が前面に出てくると,権威主義的に見えて滑稽ですらある。
 考えてみれば,教師は批判的思考力が高くない。権威に弱いから,権威ある人の言説をすぐに信じ込んでしまう。自らの頭で,その理論を検討しなくてはならない。これは,「素直でない」ということではない。何でも無批判に信じ込んではならないということだ。(つづく)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年11月11日 (土)

授業の発想力 3

 土曜日は、情報教育マイスター養成研修会に参加した。とても刺激的な研修会であった。

 途中で、大阪市立大学の木原俊行先生から、授業づくりについて質問を受けた。私は、とっさに「授業づくりは、引き算でやっています。」と答えた。木原先生は「そのあたりは、もっと詳しく教えてほしい」と、さらにつっこんで質問をされた。

 考えてみれば、私は、授業をつくるときは、「ねらい」ではなくて、「活動」からイメージする。「3年生のこの単元だったらクイズにしたら面白そう」「4年生がデジカメでスライドショーをつくったら、どんなのを作るだろう」「6年生の討論会はゲームにすると楽しくなるかも」などと、子どもが活動している場面をイメージする。
 それから、指導書の「単元のねらい」を読んで確認する。指導書のⅠ案の内容と自分のイメージが異なる場合は、Ⅱ案やⅢ案を読んで比較して、自分のイメージに最も近い案に時間配分を合わせる。
 ところが、自分のイメージ通りの授業をやろうとすると、ほとんどの場合、時間数が不足する。だから、不要な部分をできるだけそぎ落とすような計画にしていくことになる。どの活動を引いていけば思い通りの授業になるだろう、と考えていることになる。
 だから「ひき算」の授業設計になるわけである。

 専科教師である自分にとっては「時間」の価値は極めて大きい。どんな授業も基本的には指導書の時間数と同じ時間数でおさまるように計画する。だから、単元の指導計画は、A4用紙1枚なのだが、作成するのに2時間から3時間ほどかかってしまう。(つづく)

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2006年11月10日 (金)

授業の発想力 2

 当たり前のことを疑ってかかると面白いと思う。
 教育研究では、誰もが反論できない言葉がある。たとえば、以下のような言葉はよく聞くのではないだろうか。
(1)デジタル技術は生の体験をうばう〜仮想体験ではなく、直接体験へ〜
(2)個の学びから集団の学びへ〜かかわりあいのある授業を〜
(3)教師主導の授業であってはならない。子どもが自ら学ぶ授業をつくろう。
 これらの言葉を否定するわけではない。「普通」のことだからだ。でも、それでは発想は浮かばなくなってしまう。上記の言葉は、すべて「AではなくBを」という文脈である。AとBを二者対立で捉えてしまっているから、「普通レベル」でとどまってしまう。
 そこで、そもそも上記のAとBは対立するものなのか、と考えてみる。しかも、「BをするためにAをどうするか」という発想で考えてみる。そう考えると上記の三つは以下のようになる。
(1)生の体験をさせるために、デジタル技術をどう使うか?
(2)集団の学びをつくるために、個の学びをどう位置づけるか?
(3)子ども自らが学ぶために、教師はどのように主導するか?
 (1)では、デジタルでは分からない状況を設定してみると面白い。たとえば、3年生の「おもしろいもの見つけた」の授業(今年度7月のブログ)では、校内の面白い物を探してデジタルカメラで撮影するところから出発する。子どもたちは印刷された写真からクイズをつくることになる。ところが、写真は「問題」にはなりうるが、肝心のクイズそのものが作れないのである。その物の様子(表面の感触、まわりの物、色、音など)は、実際に触れてさわってみないと分からないからだ。写真を撮ることによって、写真から得られる情報が不足していることに気づく。だから、生の情報を得ようと必死になる。
 (2)では、集団で何かを作らせるときに、集団思考と個人思考を媒介を用いて交互にさせていくとよい。たとえば、スライドショー制作の授業では、子どもたちは、まず「写真」を使って大まかなストーリーを作っておいて(集団思考)、個別に原稿を書く(個人思考)。大まかなストーリーがあるから、子どもたちは個人でも原稿が書ける。その後、個の原稿を個々で読み合いながら(個人思考)、それぞれの「原稿」を比較検討しながら一つの原稿にまとめていく(集団思考)。ここでは、「写真」と「原稿」が集団思考の道具となっている。そう考えると、個の作業では「撮影する活動」と「文章にする活動」が必要になってくるのが分かる。
 (3)では、「教師主導」のイメージを変えてみる。教師主導というと、教師が一方的に情報を伝えているように感じる。そこで、子どもが教師に情報を伝える、という状況を設定する。たとえば、考えたシナリオやアイデアなどを教師に伝えるような場面だ。そこで、教師は評価者となって、主導的に「ダメだし」を行う。子どもたちは、その「壁」を乗り越えようと、自力でアイデアを出し合うことになる。教師の「壁」は、子どもを主体的にさせる効果があるのである。
 このように、「AではなくBを」という文脈を「BをするためにAをどうするか」という文脈に変換すると、新しい発想が生まれてくる。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月26日 (月)

学校の研究を考える その31

 今日は,私の研究授業であった。提案型である。今年度の「たたき台」とするための提案だから,責任重大だ。
 授業研究会では,授業そのものの問題というよりは,「たたき台を自分の実践にどう組み込むか」ということの方に,同僚の意識が向いていたような気がする。
 私が提案したことは,以下の三つだ。

 ○ 児童の思考や感情を「言葉」にするための「書く」学習
 ○ 児童の対話の技術を高めるための問答トレーニング
 ○ 児童の説明の技術を高めるための描写・説明のレッスン

 考えてみれば,研究主任はつらい。自分でもよく分からないことを,やってもらわなければならない。それどころか,提案された教師は,提案を元にして新しい授業を見せなくてはならないわけである。
 強引にひっぱれば,同僚からの反発を買う。何も提案しなければ,一年間の授業研究は深まりがなくなってしまう,
 授業研究会の後半は,学年だけのフリーディスカッションを準備していたが,大雨のために順延となってしまった。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年6月24日 (土)

学校の研究を考える その30

 6月26日(月)は,私の研究授業(国語)である。今回は,「提案型」の研究授業である。「たたき台」となる授業実践を提案することによって,今年度の研究の見通しをもたせることになる。
 責任重大である。いくつになっても,研究授業は緊張する。提案の骨子は以下のとおりである。
 指導案はPDFファイルとなっている。
*************************
(1)英語活動の意義とコミュニケーションのための三要素
  小学校の英語活動の意義は,コミュニケーション力の育成にあると考える。そのためには,「意欲」「技能」「思考」の三つの要素が必要になる。「コミュニケーションしたい」という意欲が乏しければ,コミュニケーションそのものが成り立たない。また,意欲があっても「笑顔で接する」「言葉で伝える」といった身体的言語的技能が乏しければ,意志や感情を伝えることができない。さらには,思考力が乏しければ,「何をどのように伝えればいいのか」という伝えるべき内容や方法を考えることができない。「意欲」「技能」「思考」は,コミュニケーションの場において,極めて重要な三要素だと言えよう。
 
(2)英語活動の実際
 本校の英語活動は,低学年は学校創意の時間(第1学年:年間8時間,第2学年:年間12時間)において,中高学年は総合的な学習の時間(各学年年間35時間)において行われる。
 学年の段階による学習活動は,以下のように考えている。

 低学年:簡単な英単語を使って遊ぶことによって,英語の音やリズムに慣れる。
 中学年:簡単な英語で会話しながら遊ぶことによって,コミュニケーションを楽しむ。
 高学年:英語を使うことによって,互いの意志や感情を伝え合いコミュニケーションを楽しむ。

 児童は,英語活動を楽しんでおり,学習意欲も極めて高い。後述する「タスク学習」において,高学年の児童が,積極的に英語を使おうとすることができるようになるのも,低学年からの積み重ねによるところが大きいと言える。この2年間,英語活動を取り入れることによって,外国語を話す人々と臆せずに積極的にコミュニケーションをとろうとする意欲や技能が高まっていった。「外国語(=母語以外の言葉)で話しても意志や感情が通じる」という面白くて楽しい経験が,児童の意欲や技能を高めていくことの要因になるのだろう。

(3)英語活動の課題とリアルで必然性のある場の設定
 ゲームを取り入れて,定型句と単語を組み合わせれば,それなりの会話らしい活動は可能となる。たとえば,「What fruit do you like ?」「I like apples」といった会話は,低中学年でもできるようになる。大人が見れば,早い時期から始めれば英会話ができるようになるではないか,といった錯覚に陥ってしまうが,この段階では,まだ児童は記憶したことを再生しているにしかすぎない。高学年の児童が,低中学年の英語活動と同様の「記憶・再生型の学習」に少しずつ興味を失っていくのは,児童の精神年齢が高まるにつれて,このような学習が合わなくなるからではないだろうか。
 コミュニケーションの実の場においては,「記憶・再生」ではなく,「互いの意志や感情を伝え合いながら,意味を作り出す」という活動に向かうはずである。児童は,活動そのものの楽しさから,コミュニケーションの本質へと興味・関心がうつっていく。そう考えると,教師は,学年が上がるに従ってリアルで必然性のあるコミュニケーションの場を設定する必要がある。
 そこで,昨年度から,第6学年において「国際交流のための準備」を課題とした「タスク学習」に取り組み始めた。外国人留学生と交流をするために,「相手の国を調べる」「相手の母語による挨拶を練習する」「英語による自分や熊本の紹介を行う」「日本語による相手のプレゼンテーションを聞く」といった一連の活動を行う。アジア・アフリカからの留学生が多く,英語はおたがいにとって「外国語」であり,コミュニケーションのためのツールとなる。また,欧米圏ではなく,様々な国の人々とかかわることによって,異文化共生の考え方も理解できる。
 また,今年度からは,中国の小学校との学校間交流も行うことにした。同年齢の児童が,それぞれの作品やビデオレターを交換することによって,親睦を深め,相手の国へ興味・関心をもつことができるようにすることをねらいとする。また,手紙ではなく,あえてビデオレターにすることによって,学習してきた英語を使う場をもうけることにした。
 このような,リアルで必然性のあるコミュニケーションの場を設定することによって,児童の意欲は高まり,達成感や満足感も極めて高いものになった。

(4)国語科による思考力の育成
 リアルで必然性のあるコミュニケーションを行うためには,意欲・技能・思考力を高めていく必要がある。しかし,英語活動によって「意欲」や「技能」は高めることはできても,「思考力」を高めることは難しい。なぜならば,考える作業は日本語で行うからであり,そこには論理的な思考力が要求されるからである。だから,「英語よりも日本語の方が大切である」という主張は,「考える力が育っていなければ真のコミュニケーションは不可能だ」という意味においては理解できる。本校においても,実際にプレゼンテーションをしたり,ビデオレターを作成したりする段階においては,かなりの思考力が児童に要求されることとなった。
 しかし,英語活動をやめて,単純に国語の時間を増やせば良いというものではない。むしろ,従来の国語科ではあまり意識されていなかった「コミュニケーションのための論理的な思考力」を高める学習を取り入れる必要がある。そこで、今年度は具体的な取組として以下の学習を考えている。

 ○ 児童の思考や感情を「言葉」にするための「書く」学習
 ○ 児童の対話の技術を高めるための問答トレーニング
 ○ 児童の説明の技術を高めるための描写・説明のレッスン

 思考力を高めるためには,もっとも基礎的なこととして「書く」学習を充実させることである。言葉にすることによって,思考は深まり顕在化していく。しかし,巧みな文章を書くことができても,発表したり討論したりするのが苦手な人々がいるのも事実である。書けばコミュニケーション力が向上するというわけではない。書く学習は思考力を高めるための必要条件ではあるが,十分条件ではないのである。
 そこには「対話や説明の技術」が必要なのではないだろうか。人と向かい合って,問答したり,意見を交わしたりするトレーニングが必要なのだ。そのようなトレーニングの場面を授業に意図的に組み込むことによって,児童の「コミュニケーションのための論理的な思考力」は高まっていくと考える。このことが,本提案での主張であり,仮説である。「shidouan.pdf」をダウンロード

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年6月18日 (日)

学校の研究を考える その29

 学校の研究リーダーは、勉強熱心でなければならないし、勉強家が多い。そういう人には、お気に入りの研究者がいるはずだ。その研究者が、著書 を何冊も出していたり、権威ある大学の権威ある先生であったりすれば、自分の教育方法は正しいのだと思ってしまう。だから、その方面の本だけを読んでしまい、思いこみはさらに強化されていく。
 ここに「不遜」の落とし穴があるように思える。「自分の教育観」が、単に「その研究者の主張」に合っているだけなのだ。正しいわけではない。それを防ぐためには、自分とは異なる主張を、たくさん知る事だと思う。尊敬する先輩が「中途半端に勉強している人ほど、謙虚さが無くなる」と言われていたが、そのとおりだと思う。

 「○○大学の○○先生の理論に『依拠』する」という主張をするのはかまわないのだが、なぜ、その理論に依拠するのかが分からない場合が多い。理由が分からないから「権威があるから依拠している」ようにしか思えないのである。だから、「研究発表会」ではなく、「○○先生の理論に依拠して、こんな授業をしてみました」という「勉強発表会」のようになってしまうこともある。本人たちは、一生懸命アカデミックな研究をやっているつもりなのだが、見栄を張っているようにしか見えない。理論から出発する研究であるならば、自らの実践を通して、自らの「新たな理論」を導くことに研究の価値があるのではないだろうか。
 私は「○○大学の○○先生」の「授業観・研究観」を知りたいのではない。そんなものは、本を読めば分かる。研究リーダー自らの言葉を通して「その学校の教師」の「授業観・研究観」を知りたい。

 先日、野村万作氏と野村萬斎氏の狂言を家族で見に行った。演技が始まる前に、野村萬斎氏が登場して次のようなことを語った。
 「最近、狂言がユネスコの世界文化遺産の指定を受けました。しかし、演技者が権威づけられていい気になっていても、お客様に楽しんでもらえなければ、お客様は狂言を見に来なくなってしまいます。狂言は、演技者とお客様が一緒になってつくっていくものです。どうか、今日は楽しんでいってください。」
 当日の狂言そのものは、心から楽しめるものであった。途中何度も大笑いしてしまった。その言葉の巧みさとストーリー展開は、現代でも十分通用するものである。低俗なお笑い番組とは全く質の違う笑いだ。数百年の時代を通して生き残っていったものは、権威づけられていなくても、すばらしいと感じる。
 授業もまた、教師と子どもたちが一緒になってつくっていくものである。子どもの方を向いているようで、実は、「子どもの考えを大切にしようと主張している権威ある大学の先生」の方を向いているということはありはしないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

プロジェクト型の協同学習を考える その2

 プロジェクト学習を「協同学習」たらしめるには、高めの目標が必要だ。グループの中には能力の差があっていい。能力の高いものにとっても、やりがいがあるものでなくてはならない。
 附属小学校では、6年生は英会話ビデオ番組を制作する。また、国際交流会に向けての英語によるプレゼンテーションなども行っていた。子どもたちの活動を発表すると、必ず「そういうことは、附属の子どもだからできるんだ。一般の学校では難しい。」という批判を受けたものだ。
 しかし、現任校でも同様のことは可能であり、実際にやっている。少ない機材でも、編成を変えたり、ソフトを変えたりすれば十分にできる。
 難しいのは、目標をどこに置くか、ということだ。どのレベルまでをねらうのか、と言い換えてもいい。低すぎでは、もちろんダメだが、高すぎると、子どもたちはハードルを跳び越えられない。ここが、教師の腕の見せ所かもしれない。

 プロジェクト学習には、このような「実践の根底にある考え方」が極めて重要な意味をもつのだが、こうしたことを今まで「文章化」していなかった。だから、「活動プラン」と「方法論」だけしか残らない。すうすると、今まではうまくいっていた学習が、指導者が代わるとうまくいかなくなることがある。これが「実践の形骸化」である。逆にいえば、素材も活動も方法も変えていいので、「考え方」を残す必要があるのだろう。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月16日 (金)

プロジェクト型の協同学習を考える その1

 最近の私の授業は、ほとんどがプロジェクト型の協同学習(以下プロジェクト学習)である。その理論と方法を学んだのは、1999年7月25日から31日にかけてサンフランシスコで行われたCampAppleという研修会である。
 かなり影響を受けて帰ってきて、その翌年には、アメリカから講師を招いて同様の研修会を主催した。今でも総合的な学習を行う場合、最も有効な学習方法だと思っている。
 プロジェクト学習では、「少人数でのグループ学習」を基本とする。教師1に対して子ども40人という構図となる「一斉指導」とは大きく異なる。
 しかし、「一斉指導」が悪いとは思わない。「一斉指導の呪縛から解放し・・・」とか「一斉指導の授業から別れを告げ」といった主張を聞くと、そんなに「一斉指導は悪いのか?」と思わざるを得ない。「一斉指導」を批判する人たちは、「教師が教えたいことを一方的に教える」とか「一部の子どもたちだけが活躍する」といったことを理由に挙げているが、元々、そんな授業は、その形態に関わらず、以前からずっと批判されてきたはずである。
 今までの授業スタイルを改善するために、「少人数でのグループ学習を取り入れましょう」「子どもの考えから出発しましょう。」といった主張なら理解できる。だが、「別れを告げる」ほど「一斉指導」は「悪しき指導」なのか。
 要は、子どもたちが学習の面白さが分かり、伸びていく状態をつくることが大切なのであり、学習形態の問題ではない。たとえ、少人数によるグループ学習であったり、子どもの考えから出発するような授業であったりしても、子どもが学習の面白さを分からず伸びていない状態ならば、本末転倒というものである。
 中学1年のとき、社会の歴史の授業の時間に、古代の本物の「食器」を見せてもらったことがある。青白く光る本物の輝きは今でも目に焼き付いている。聞けば、社会科の先生が破片を一つ一つ貼り合わせて復元したものだという。生徒に見せるために徹夜したのだそうだ。そこには言葉はいらなかった。「先生が徹夜して復元したホンモノを見た」という感動が、学びの扉をひらいたのだ。

 「一斉指導だから悪い」「少人数によるグループ学習だから良い」というものではない。私は、中学3年の時、朝の自習時間のグループ学習が大嫌いであった。担任教師は「バズ学習」と言っていたが、私はちっとも面白くなかった。なぜならば簡単すぎるからだった。英語と数学の小テストを行い、その答えを4人のグループで教え合うというものであった。でも、私は常に「教える側」であり、学ぶ意欲のないメンバーにうんざりしながら解き方を教えるという立場であった。こんなものは「協同学習」とは言わない。このグループ学習は、しばらく続いたが、いつのまにかなくなってしまった。
 「協同学習」にするためには、基本的には、グループ全員にとって「ちょっぴり高い目標」になっていないといけないのである。一人では解決できないが、グループ一人一人が力を合わせると解決できる、といった目標設定が必要なのだ。だからこそ、一人一人の存在価値が生じてくる。「自分も課題解決に参加した」「ぼくも、みんなの一員だ」という自己有能感が学ぶ意欲を高めていくのである。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

学校の研究を考える その28

 研究授業の後、授業研究会を聞きながら、職員からの意見をその場でパソコンで「言葉」にしていく。家に帰って、書き足して一つの文章にする。それを「研究通信」にして印刷して配布する。とりあえず、飾らずに「自分の言葉」で書く。なかば常識的なことだったとしても、「まだ共有化されていなかった課題」として、きちんと文章にする。地道な作業だけど、研究授業のたびに、この作業をやることが必要だと思う。面倒だけど、年度末にやるよりは、はるかに良い。なぜならば、次回の研究授業は、「文章化」されたことをふまえて行われるので、「進歩」するはずだからだ。研究通信の実物を記す。
******************
研究通信 No.5
研修型授業研究会から学んだもの

 研究授業および授業研究会、大変おつかれさまでした。研究授業によって本校の課題が明確になり、そのことが「小学校英語活動の授業のあり方」を共有化するきっかけになっていきました。授業研究会で話題になったことを、いくつかまとめて文章化していきたいと思います。
 昨年度までに、「研究のまとめ」や「研究紀要」では書ききれなかった部分を「言葉」にしていくことによって、飽田東小学校の英語活動の輪郭がはっきりとしてくると思います。
1 小学校英語活動における「文字情報」をどうするか
 低学年部ではカタカナが話題になり、中学年部では英文が話題になったようです。文字情報をどうするか、ということを考えることは、結局、「小学校の英語活動で何をねらうか」ということを考えることになります。
 小学校の子どもたち(特に低学年)の特長として、その耳の良さが挙げられます。耳で聞いたことを正確に口にすることができます。だから、幼い子どもがネイティブなみに発音する場面をよく目にします。
 そう考えると、この時期の子どもたちに必要なことは「耳で聞いて言葉を獲得し、そのまま発音する」という学習活動なのでしょう。だから、「文字情報」を提示することは、「聞いて覚える」状態から「見て覚える」状態になり、子どもの感覚は「聴覚」から「視覚」に変わります。また、有声音と無声音を区別させる意味においても、文字情報はない方がいいのでしょう。だから、はじめて英語を知る場面においては、「耳で獲得する」という活動を重視した方がいいと言えましょう。
 しかし、低学年の児童の場合、長い文章は覚えられないということもあるかもしれません。自然な英語に親しむということを考えれば、むしろ「長文を覚える活動」そのものが不必要なのでしょう。果物や動物の名前の読み方やその発声の仕方が獲得できればいいのかもしれません。
 まとめると、はじめて出てくる単語や英文の場合、「文字情報」で覚えさせる必要はないということです。
 だからといって、全く文字情報が不必要だというわけではないようです。われわれも年齢があがるにしたがって、少しずつ文字を目にするようになったように、文字が入ることは自然な流れなのでしょう。中学年くらいからピクチャーカードの下に文字が入っていたりすることは自然に文字を獲得していくきっかけになるかもしれません。
 また、高学年になり、タスク学習を行う場合、以前に学習した英会話を「思い出す」ためのきっかけになります。大人でもそうですが、外国人とコミュニケーションをしようとするとき、とっさに英語が出てきません。「How are you?」「May I have your name?」といった英文があれば、思い出して話すことはできます。そう考えると、「文字になれる」「思い出す」ための道具としての「文字情報」は意味があると考えられましょう。

2 ALTの役割と視聴覚機器
 正確な発音を教える場面では学級担任では難しい、という話題からALTの役割について話が及びました。発音という意味では、どうしてもALTにたよりがちになりますが、ALTはCDプレイヤーではありませんので、本来の役割を明確にしておいた方がいいでしょう。
 基本的には「正しい英語の発音を教える人」ではなく、「外国語を使ったコミュニケーションの楽しさを実感させる人」だと考えます。だから、子どもと一緒になって活動し、笑ったり遊んだりすることを共有することが極めて重要な役割になります。子どもたちに「日本語とは違う言葉をお話しする○○先生と『話』ができた。自分の外国語が通じた。楽しかった。面白かった。」と感じさせることが大切なのでしょう。
 そう考えると、ALTとのTTの場合、学級担任の役割は「ホンモノの外国語話者」とコミュニケーションできる場の設定を工夫することになります。コーディネイターとしての教師の役割がより重要になってくるようです。
 また、2学期からALTが学校に来ないことを考えると、「正確な英語の発音」を聞かせるという場面では、コンピュータ等のICT機器を上手に活用した方が良いと思われます。どんなに英語の発音が上手な日本人であっても、正確な部分はネイティブスピーカーにはかないません。特に動画を使うと、口の動きが正確に分かります。LやR、THやVといった日本語にはない口形を見せる場合には威力を発揮できると考えられます。

3 英会話の技能と正確な発音
 本校の英語活動においては、英会話の技能を高めることを直接的な目的とはしていません。だから、小学校高学年において、自由にぺらぺらと話せなくてもかまわないわけです。
 また、大人になって外国人と話すと、相手は「発音なんて気にしなくていいよ。」「同じ英語でも、イギリス人とアメリカ人とオーストラリア人では違うからね。」などと言ってくれます。たしかに、獲得した後の英語においては、あまりにも発音を気にすると、話せなくなるという弊害があります。日本人は、外国人だらけの状況の中では英語で話せるのに、日本人の中では話せないということをよく聞きます。日本人の発音コンプレックスというものは存在しするのです。だから、リアルなコミュニケーションの場面においては、発音をそれほど気にすることはないのでしょう。
 しかし、だからといって、小学校の授業の中において、はじめて子どもたちが触れる英語が正確な発音である必要ない、とは言えないようです。耳のよいこの時期だからこそ、できるだけ「正確な発音」を聞かせることは、重要であると考えます。ホンモノらしい発音ができることが、コミュニケーションしたいという意欲や自信につながっていくとも言えるからです。また、一度間違った発音を身につけてしまうと、なかなか矯正できないという問題点もあります。
 そう考えますと、前述したICT機器を上手に活用していくノウハウもまた研究する必要があるのかもしれません。

4 低学年の英語活動がねらうところ
 低学年の英語活動が話題になりました。本校の低学年の英語活動の時間は、1年生で8時間、2年生で12時間となっています。その中で、「英語に親しむ・楽しむ」ということをねらいとしているわけです。
 年に数回の英語活動ですので、当然「英語で話せること」は目的としません。長い英文を覚えさせる必要もないわけです。低学年の先生からは、「英語活動を楽しむことによって、臆せずに他の人と話しができる力がついてきた。」というメリットが指摘されました。また、高学年の先生からは「高学年の子どもたちが、積極的に英語でコミュニケーションできるのは、中学年までの素地ができているからだ。」という指摘もありました。
 6年間を貫いた学校カリキュラムとして考えた場合、低学年の子どもたちが「英語に親しむ・楽しむ」というねらいで英語活動を行うことは、意味のあることだと言えましょう。
 そう考えると、年間8時間12時間の低学年の英語活動の内容を、さらに検討してシンプルなものにしていく必要があるかもしれません。

5 教師の英会話技能
 ここが一番難しいところだと思います。1時間の英語の授業の中で、教師がずっと日本語で話しをしていくと、子どもたちの「聞く耳」を養いにくいようです。
 自然な活動の流れの中で、教師が可能な限り英語で話をしていくことは必要なのでしょう。かといって、全ての小学校教師が流暢に英語でしゃべれるわけではありません。そこでクラスルーム・イングリッシュが必要となってきたのでしょう。
 クラスルーム・イングリッシュは、基本的な「指示の言葉」を英語になおしたものです。「Make a group of 5」「Sit down」といった簡単な指示語もあれば、「Great! 」「Good job!」といった褒める言葉もあります。
 これらのクラスルーム・イングリッシュを毎週の職員研修で練習しつつ、教師が意識的に日本語の説明を減らしていくような努力も必要なのでしょう。
 たとえば、「じゃあ、次の英語は、果物だよ。黒板のカードを見てね。」という指示の代わりに「Next. Fruit cards. Look」でもいいのでしょう。そのような短くて分かりやすい英語の方が、むしろ授業のテンポはよくなり、活動と活動の間は縮まっていくような気がします。
 発音は自信がないので、私もがんばります。

 みなさん方、授業研究メモに書かれていましたが、お二人の先生方は終始笑顔でにこやかに授業をすすめていかれました。英語活動も楽しくて、子どもたちも意欲的に学習をしていきました。学級経営の良さが前面に出ていて、見ていて気持ちがいい授業でした。
 授業研究会も活発に意見が交換されて、「本校の課題」が明確になっていったと思います。本当にありがたいです。(次は私の研究授業です。(^_^;))

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月14日 (水)

教えるということ その2

 私が今でも忘れないのは、子どもの頃の「水泳」だ。
 私が低学年の時、プールで全く泳げなかった。最大の原因は、水中で目が開けられなかったのである。私の母親は、毎朝洗面器に水を入れて、私が水中で目を開ける練習ができるようにした。洗面器では目を開けられるようになったが、プールではダメだった。
 ある日、担任教師から、「水泳の特別指導を受けなさい」と言われた。放課後だったか、夏休みだったか、記憶は定かではないが、泳げない子が10名ほどプールに集められた。夏の暑い日だった。
 プールには恰幅の良い男性の先生がいた。私たちは、その先生のまわりに集められた。その先生は、1個のおはじきを水に沈めて、次のように言った。「さあ、このおはじきをとってごらん。」。私たちは、先を争って、足を使っておはじきをとろうとした。その先生は、笑いながら、「足じゃなくて手でとるんだよ。」と告げる。私たちは、一瞬ひいてしまったが、とにかく顔を水面に沈めた。目を開けないと、おはじきの場所が分からない。思い切って、目を開けた。「おはじきが見えた!!」私は興奮して、おはじきをつかんだ。その後は、みんなで「おはじきゲーム」で遊んだり、「水中じゃんけん」をやったりして遊んだ。
 気づいたら、私はいつのまにか水中で目をあけられるようになっていた。
 後で聞いた話によると、その先生は、水泳指導では、とても有名な人だったそうだ。たった1時間しか教えてもらっていないが、今でも顔も名前も覚えている。まさに、良い「instruct(知識や技芸などを身につくように訓練する。)」の典型だと思う。よほど、自分にとっては、うれしい思い出だったのだろう。その後は、水泳ができるようになっていた。

 「教える」ということは、「子どもの持っている力を引き出すことだ」と言われる。授業スタイルを変えれば、子どもが「学ぶ」というわけではないだろう。たとえ、教師による「語り」や「指示」であっても、子どもが能動的に受け止めることができれば「学び」は成立する。
 子どもが活動したり話し合ったりする授業スタイルになれば「学び」が成立するというわけではないはずだ。教師は「よい教え方」を身につけているのだろうか。「知識を語ること」が「教えること」ではないはずだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月13日 (火)

学校の研究を考える その27

 6月12日は「研修型」の研究授業であった。今年度は、一回一回の研究授業に「目的」をもたせている。研修型の目的は、「授業力向上のために、新メンバーが授業に挑戦する。課題を共有化して互いにアドバイスを行う。」ということである。今回は低学年と中学年の英語活動の授業だった。
 授業研究会は、とても意味のあるものであった。なぜならば、旧メンバーのアドバイスの「理由」を聞くことができたからだ。たとえば、新メンバーが授業の途中で、カタカナを黒板に書いた場面があった。「I like~」の部分を「アイ ライク」と書いたのである。授業研究会でもそのことが話題になった。旧メンバーの一人一人が、「私は、カタカナを使わない」ということを述べて、その理由を語ってくれた。
 (昨年度までは、そういうことは「カタカナ英語になるからよくないかな」という認識がある程度で、職員間で話し合う場面がなかったのである。)
 そこでは、低学年の子どもの耳の良さが、理由として挙げられた。彼らは「英語の発音」をしっかり耳で聞いて、そのとおりに発音できる力があるのだ。また、文字が黒板に入ると、「聞いて覚える」状態から「見て覚える」状態になり、子どもの「聞く力」を高めることができない、ということも挙げられた。また、カタカナになると「有声音」と「無声音」の区別がつかなくなるということも挙げられた。こうしたことは、昨年度までの2年間の授業研究の中で旧メンバーが授業の中でつかんでいったことであった。
 他にも「ALTの本当の役割」「低学年英語活動が目指すもの」「繰り返し練習できる授業とは」「教師がどの程度英語を話すか」といったことも話題になった。
 私は、そのアドバイスを、その場でパソコンに入力しながら文章にしていった。3年目の研究主任の役割は「理論化」だと思っている。昨年度まで、全職員が苦労してつかんできたことを「言葉」にしていく作業だ。だから、研究紀要をその場で書いているようなものである。
 教育論文の多くが役に立たないのは、「大まかな理論」のあとに「大まかな実践報告」がいくつも挙げてあり、最後に「大まかな成果と課題」が書いてあるからだと思う。カリキュラム開発や授業づくりで欠かせないのは、その根底に流れている一つ一つの「考え方」である。「小学校英語活動において文字情報をどうするか。」「ALTの役割はどのようにあるべきか。」といったことを、きちんと理由づけをしながら、「言葉」にしていく作業が重要なのではないか。文章になっていないから、共有化できないし、継続ができない。研究紀要とは、本来そういうものだと思う。研究紀要を年度の終わりに書くと「大事な部分」が「言葉」にならず、「大まかなもの」しか残らない。3年目の研究主任の仕事は、全職員の「智慧」を、一つひとつ「言葉」にしていく作業だと思う。Mitooshi_1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月11日 (日)

教えるということ その1

 最近は「子どもが学ぶ」ということが重視されて,「教師が教える」ということは,あまり重視されていないように感じる。教師が効率的に指導しようとすると「教え主義」などと批判されることもある。
 そもそも「教える」ということはどういうことなのだろう。
日本語大辞典(講談社)によれば,以下の意味がある。
(1)知識や情報など知っていることを他の人に知らせる。teach
(2)知識や技芸などを身につくように訓練する。instruct
(3)さとす。いましめる。admonish

 教師は,「知らせる」「訓練する」「さとす」という行為が上手なのだろうか。

 私は,小学校時代,音楽が大嫌いであった。まったく興味がなかったし,鍵盤は見るのも嫌だった。楽譜の意味も分からないし,楽器の演奏は大の苦手であった。通知票は「2」だった。
 ところが,中学校の音楽の教師は,とても「教え方」がうまい人であった。女性の先生で,今でも鮮明に覚えている。中学一年生に「四分音符とは何か」ということから,丁寧に説明をしてくれた。今まで,まったく意味の分からなかった楽譜が,「分かる」ようになった。そうなってくると,がぜん音楽が楽しくなってきた。
 私は,お年玉をはたいてマンドリンを買って練習することにした。演奏する上で分からないときは,その音楽の先生に質問するようになった。彼女は,「半音」の意味,シャープやフラットをどう使うか,といった簡単なことまで具体的に教えてくれた。
 高校に入ると,私は有志をつのって軽音楽愛好会をたちあげた。大学