2009年7月27日 (月)

教育美術賞

 財団法人 教育美術振興会が主催する教育美術賞で入賞し、佳作賞をいただきました。

 テーマ「コミュニケーションを志向する図画工作科授業の展開」

 現任校に移動してからは、三年間国語専科であったために図画工作の授業が全くできず、さびしい思いをしておりました。昨年度から学級担任になり、作品主義でも放任主義でもない図画工作の授業を模索しておりました。あえて名付けるならばコミュニケーション主義と言えばいいかもしれません。
 関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。

 論文の冒頭は次のように書き出しました。少しだけ紹介させていただきます。
*************************************
Ⅰ 問題の所在
1,コミュニケーション教育としての図画工作美術教育

 美術作品はメディアである。
 物理的に見れば、絵画は「紙や布の上に絵の具を塗ったもの」にしかすぎないし、彫刻は「石や木材、粘土などを何らかの物体の形にしたもの」にしかすぎない。それらの作品そのものを味わうのは、鑑賞者の能力にゆだねられる。
 鑑賞者は作品を漠然と眺めていても、新しい意味は生まれない。「表現者は、なぜこの絵を描いたのだろう。」「ここに描かれている物体は、一体何なのだろう。」「季節はいつなのだろう。」「朝なのだろうか、夕方なのだろうか。」などと、自分自身に問いかけ自分なりの答えを出していくことによって、鑑賞者と表現者の間に「新しい意味」が生まれてくることになる。つまり、鑑賞者は、自分自身と対話することによって、表現者とのコミュニケーションを行うことができるのである。

 表現者は、自分の感動したものや伝えたいイメージをどのように表現すれば、鑑賞者とのコミュニケーションができるかという思考を行う。そこにも、また自分自身との対話が欠かせない。様々な試行錯誤を行うことで、自らの感性に働きかけながら,表現活動は行われていく。
 つまり,美術とは、鑑賞者と表現者と間に成立するコミュニケーションそのものなのである。そう考えると、美術教育は、表現の能力だけを高めていても不十分であり、鑑賞の能力をも高めることによって、成立する教育だと言える。
 本実践研究では、美術教育を「表現者と鑑賞者の間に成立するコミュニケーション教育」という視点で捉えなおしてみたい。「作品」を、「表現者による自己表現の産物」と見るのではなく「制作者と鑑賞者の間に存在するメディア」として見てみる。つまり,表現者と鑑賞者の間に、新しい意味を生み出すことをアートと捉えるのである。
 「新しい意味」とは作品や人によって異なる。「美しい」「きれい」といった「美的な感動」である場合もあるし、「面白い」「すごい」といった「驚き」である場合もあるだろう。あるいは、「画家の主張」を感じ取ることもあるし、「これ、何だ?」という疑問を感じることもあるだろう。画家の卓越した技術や独創的な表現に心を動かす場合もある。
 もしも、表現者と鑑賞者の間に何ものも生まれない場合は、アートとしての価値は低いことになる。逆に、両者の間に生み出されるものが多ければ、アートとしての価値は高いことになる。両者の間に生み出されるものを多くするためには、表現のための力と同時に鑑賞の力も高める必要がある。美術教育において教師が行うべき仕事は,特定の美意識に沿った「立派な作品」を子どもたちに作らせることではなく,表現者でもあり鑑賞者でもある子どもたちにコミュニケーションの場と力を与えることである。

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2008年9月 8日 (月)

絵を言葉にする 2

 子どもたちから次のような答えが返ってきた。
 ○ 小さいところまでかいている。
 ○ すきままでしっかりとかいている。
 ○ 一番力を入れているところをかいている。
 子どもたちは、かなり良いセンスをもっていると実感した。一つ一つ、子どもたちをスクリーンの前に立たせて指示棒で「ここ」という場所を示させた。いい雰囲気である。

 さらに
 ○ 人物がいい
 という答えがかえってきたので、「自分のどこがいいの?」と問い返すと、次のような答えが返ってきた。
 ○ 大きい。
 ○ 色が濃い。
 ○ 真ん中にかいてある。
 ○ 力強い。
 ○ がんばっている様子が分かる。

 見る人に感動を与える絵には、やはり根拠があるのだと思う。

 次に別の絵を見せた。はじめの絵は、どちらかといえば写実的な絵であったのに対して、2枚目の絵は、モノレールがぐんと大きく描いてあり人物は少し漫画っぽく小さく描いてある。その絵に対しても、子どもたちは「いい絵だ」という反応を示した。
 「この絵は、どのあたりがいいのだろう?」と問うと、同様の答えがかえってきた。さらに
 ○ 人物の気持ちが分かる。
 ○ 太い線や細い線が使われている。
 ○ 一番かきたいものを大きくかいている。
といった答えも返ってきた。

 このような話し合いは、子どもたちは好む。友達の意見から新たな発見があるからだろう。このあとに、下絵を描かせることにした。

 教科書や参考作品を使わないで子どもの自由に描かせるという指導方法もあるだろう。しかし、むしろ「人々が感動する絵のヒミツは何だろう?」という課題をもたせた方がいいのではないだろうか。
 3年生の子どもたちでさえ、これだけの気づきがある。学年が上がるに従って「絵を見る」ということを積極的に能動的にできるようにしていく必要があると考える。

 ただ、改良点もある。やはり、「この絵のどこがいいのだろう」という発問の前に、「この絵の中に何が見えますか?」という定石どおりの発問がいると感じた。そうしないと、絵の意味をすぐに見いだせない子どもがいるからである。

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2008年9月 7日 (日)

絵を言葉にする 1

 図工の指導は難しい。
 「子どもの思いや願いを生かして自由にのびのびと」という言葉はよく言われるが、教師にとっては「自由にのびのびと」させる方法が分からない。子どもは自由にのびのびとは描けないのである。特に中学年では、低学年ほどの奔放さが無くなる。自由気ままにやらせても、子どもたちの満足度は低いままになってしまう。よく美術家たちは「子どもの自由に描かせよう」と言うが、自分の幼いときの経験に基づいているのではないだろうか。美術家の多くが過去「自由に描けた子ども」であったはずだ。しかし、そのような子どもはそう多くはない。
 かといって、教師の指示どおりに描かせると、「大人が満足する絵」になるが、構図も彩色もすべてが同じような絵になってしまう。以前から「教師の指導性の強い絵」として批判されてきた。

 では、どうすればいいのだろう。
 今回の授業では、教科書準拠の資料にある子どもの描いた絵を見せることにした。実物投影機で大きく黒板にうつす。子どもたちは「おーっ」と叫んだ。感動した証拠である。
 「この絵はどこがいいのでしょうか?。3人で話し合いなさい。」と指示した。(つづく)Kokorokirari

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2008年8月30日 (土)

「分析批評」による名画鑑賞の授業 締め切り直前

 以前お知らせしました「『分析批評』による名画鑑賞の授業」の注文が、あと2日で締め切られます。復刊であるがゆえに、2520円と少々高めの値段になっていて申し訳なく思っています。

http://www.meijitosho.co.jp/shoseki/shosai.html?bango=4%2D18%2D709608%2D6

 図工美術の本ですが、発問の方法は国語教育からヒントを得たものです。非連続型テキストを読むような国語科授業を創る上でも参考になると思います。

 Bunsekihihyoniyorumeigakans

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2008年8月21日 (木)

「『分析批評』による名画鑑賞の授業」復刊決定

 昨日、復刊投票のお知らせをしましたところ、いきなり復刊が決定いたいました。あらためて、ネットの力を実感しているところです。
 皆様のおかげです。大変、ありがとうございました。

 現在は、明治図書のサイトでは追加注文を受け付けているようです。あと11日で締め切られます。興味のある方がいらっしゃいましたら、お早めにご注文下さい。

http://www.meijitosho.co.jp/shoseki/shosai.html?bango=4%2D18%2D709608%2D6

 18年前の授業ではありますが、今でも通用する内容だと思います。

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2008年8月20日 (水)

「分析批評」による名画鑑賞の授業

 今から18年も前に「『分析批評』による名画鑑賞の授業」という本を出版しました。
 パソコンもプロジェクタも教室に普及していない時代に、スライドやOHP、カラーコピーなどを駆使して「鑑賞の授業」を実践してきたものです。
 内容としては、教師が解説をするのではなく、子どもたちに視点を与えて絵を読み取らせていこうとするものです。たとえば、「絵を見た感想を言いましょう。」という発問から出発して、「絵の中にどんなものが見えますか?」「どんな音が聞こえてきそうですか?」「季節はいつですか?」という問いかけによって、絵を見る視点をもたせていきます。
 しかし、当時の図工美術教育界では、ほとんど鑑賞は注目されていませんでした。ですから、初版本も売り切ることはできませんでした。

 ところが、ここ数年は鑑賞の授業は注目を浴びるようになってきました。今から5年前、NHKが私の「雪舟と水墨画」の授業を取材にきたこともあります。美術とは、制作と鑑賞が一体となって生まれるものです。制作だけに偏った授業から、進歩していったのかもしれません。

 この「『分析批評』による名画鑑賞の授業」は、絵を言葉にしてそれぞれの読み方の違いを交流するという意味で、おそらく当時としてはめずらしい実践だったのだと思います。ここ数年になって、この本がほしいという意見を聞くようになりました。すでに絶版となっております。私自身も、たったの一冊しか持っておりません。

 そのようなご意見を活かすために、明治図書では「復刊投票」というものを行っております。先日、ランキングを見たら、「『分析批評』による名画鑑賞の授業」が第5位になっておりました。驚きました。
http://www.meijitosho.co.jp/shoseki/shosai.html?bango=4%2D18%2D709608%2D6

 あと15票が入ると、18年ぶりに復刊ということになります。当時1450円だった本が復刊では2520円にもなってしまいます。また、授業実践としては、かなり問題のあるものもあります。著者名も旧姓のままです。
 それでも、興味のある方がいらっしゃいましたら、投票いただけると幸いです。
 映像と言語を往復することの面白さがご理解いただけると思います。Bunsekihihyoniyorumeigakans

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2008年8月 9日 (土)

感性はなぜ必要か?

 前述したDeSeCo(Definition and Selection of Competenites)は、キーコンピテンシーを3つに区分している。
 その3つとは以下である。
1、Use tools Interactively(道具を双方向的に使用できる能力)
2、Interact in heterogeneous groups(異質な人々と相互に関わり合う能力)
3、Act autonomously(自立的に行動する能力)

  InSEAのシンポジウムでも、このDeSeCoの主張が話題になっていた。「感性」といった美的な能力が、この中に含まれていないのも要因であろう。

 一方、新学習指導要領の図画工作の目標では,「感性を働かせながら」が新たに加えられた。

 感性とは何だろう。大辞泉では次のように説明してある。
****************************
1 物事を心に深く感じ取る働き。感受性。「―が鋭い」「豊かな―」
2 外界からの刺激を受け止める感覚的能力。カント哲学では、理性・悟性から区別され、外界から触発されるものを受け止めて悟性に認識の材料を与える能力。
****************************

 また、新学習指導要領解説では次のように述べられている。
****************************
「感性を働かせながら」は,今回新たに加えた文言である。これは,表現及び鑑賞の活動において,児童の感覚や感じ方などを一層重視することを明確にするために示している。
「感性」は,様々な対象や事象を心に感じ取る働きであるとともに,知性と一体化して創造性をはぐくむ重要なものである。表現及び鑑賞の活動においては,児童は視覚や触覚などの様々な感覚を働かせながら,自らの能動的な行為を通して,形や色,イメージなどをとらえている。これを手がかりに児童は発想をしたり,技能を活用したりしながら,自他や社会と交流し,主体的に表現したり,よさや美しさなどを感じ取ったりしている。「感性を働かせながら」とは,このような児童の感覚や感じ方,表現の思いなど,自分の感性を十分に働かせることを示している。

****************************

 「感性」を否定する人はいないだろう。しかし、「感性」は、DeSeCoが主張するキーコンピテンシーには含まれてはいない。
 図工美術科は、感性がなぜ必要なのか、ということに関して説得力のある説明を行っていく必要がある。

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2008年8月 7日 (木)

国際美術教育学会世界大会で

 国際美術教育学会(InSEA)は刺激的な会である。世界の美術教育学者が、心理学や教育学の視点から様々なアプローチをしているからである。

 10年前、InSEAは東京で開催された。その時、DBAEについて発表する人を事前に調べて、学会の前にメールを出した。Melanie Davenport先生という。彼女とInSEA東京で出会って、意気投合した。ずっと語り合って、国際交流プロジェクトを企画した。そのプロジェクトは成功。その翌年の春休みにワシントンDC開催されたNAEA(全米美術教育学会)に参加することになった。そのような経緯もあって、InSEAは忘れられない思い出を創ってくれた場であった。

 そして、昨日のInSEA大阪大会。Melanie Davenport先生が発表するのを知って、いそいで発表会場に駆けつけた。おたいがいを見つけるとその場で抱き合い10年ぶりの再会を喜んだ。本当にうれしい瞬間であった。Melanie先生も私を捜していたという。
 彼女の発表は、メキシコの小さな村に昔から伝わる民話を、現地の高校生がクレイアニメーションにしたというものだ。彼女が準備したのはiMacとビデオカメラ。高校生は、協同してストーリーボードを作成してすばらしいアニメーションを作り上げた。この実践は伝統とテクノロジーを融合させたばかりではなく、粘土の造形、音楽、台詞など様々な要素が統合されたものであった。彼女のアイデアから学ぶことは多い。
 昼食は、寿司屋さんで2時間ほど情報交換した。おたがいの作品がデジタルなので、すぐに交換できるところが便利である。また一緒に何かやりましょう、ということで別れを惜しんだ。Insea

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2008年8月 6日 (水)

国際美術教育学会世界大会2008in大阪

 8月5日の午前中は、全国図画工作・美術教育研究大会。大会運営委員長の山本啓介先生の提言が心に残った。紀要から引用させていただきたい。

****************************
 ここ十数年、子どもの「思いのままに」流の授業が展開され、一つの儀式・やり方として流行した。教師は支援に、子どもには主体性の名のもとに「思いのまま」を求め、文字通りの何でもあり、子どもの育ちを置き去りにしたいわゆる「楽しい授業論」である。
(中略・・・前田)
 また、この時期を過ごした現在の大学生にメダカを描かせると、3分の1は無限大記号の線描となり、朝顔の葉は桜葉と類似し、蝶を描かせると軍配の図柄となった。
 生活の中で見取ること・感じ取ることを心の中の形象に高める力が弱く、自らの心に描きつづけもつイメージ力の「育ち」の残薄さがその背景にあると考えられる。
 子どもの「思いのままに」流の授業が引き起こした一つの教育結果であり、学校教育はこれら時代を過ごした全国の子どもたちに謝らなければならない。
(後略・・・前田)
****************************

 あるデータによると、小学校の教師がもっとも教材研究に時間をかけるのが「国語」であり、全体の3分の1をしめていた。その次が「算数」。次が「社会」と続く。そして、一番最後に申し訳程度に残っていたのが「図工」であった。「図工」は図工美術の専門以外の教師にとっては「もっとも教材研究に時間がかからない教科」となっているのである。
 このままでは、図工の教科としての時間は残っていても、その教育内容はどんどん薄っぺらなものになっていくのではないだろうか。図工美術教育は、もっと自らの教科の重要性を主張しなけらばならない。

 この日の午後は、場所を変えて国際美術教育学会世界大会。さすがに世界レベルになると内容が幅広い。
 全体会の基調講演の中で、米国のBrent Wilson氏は視覚文化としての日本のコミックを取り上げ、台湾のLin Mun-Lee氏はCGを駆使したアニメーションを紹介した。
 各部屋で行われる発表内容も、漫画や映像などがテーマとなっているものが多い。8月9日までの全ての発表を聞きたいところだが、6日の夕方には東京に戻らなければならない。残念!!
 

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2008年8月 5日 (火)

全国図画工作・美術教育研究大会 in 大阪

 今日は大阪。昨日までは東京で国語のワークショップをひらいていたのに、今日は、大阪で図工のコメントをするという変な役回りだ。

 国語科の学習指導要領の解説と図画工作科のそれとを読み比べてみると面白い。それぞれの教科が、表現や鑑賞(情報の受け取り)の対象としているものの違いが分かる。

 国語科は以下である。
 古事記,日本書紀,風土記などに描かれたものや,地域に伝わる伝説
 実際の本の紹介文,本の帯,広告カード(ポップ)などの実物
 本や文章,パンフレットやリーフレット,
 雑誌や新聞,音声や映像,
 インタビューやアンケートなど
 図表や絵,写真などの資料
 インターネットなど様々なメディア
 実物や映像
 コンピュータのプレゼンテーションソフト

 一方、図画工作科は以下である。
 楽しい入れものや家族や知人へのプレゼント
 印刷物や絵ハガキ
 食器や家具,
 ポスターやネオンサイン,造園,建物,工芸品や衣服,様々な用具などの身近にある造形品
 写真やアニメーションなどの児童が興味や関心をもてる映像メディアなど

 もっとも図画工作科の場合、材料や道具は細かく記してあるものの、表現する対象については、あまり限定されていない。そこは自由度が高いとも言える。

 しかし、以下のようなことは図画工作でも扱えるのではないか。

 パンフレットやリーフレット,
 雑誌や新聞,音声や映像,
 図表や絵,写真などの資料
 インターネットなど様々なメディア
 実物や映像
 コンピュータのプレゼンテーションソフト

 少なくとも、これらのことは、伝えるため文字情報だけではなく、美しくレイアウトする工夫や、映像などの非言語情報を活用する工夫も必要だろう。

 なんだか、国語科は、文字情報を超えて、ぐっと「拡張」してきているのに対して、図画工作科はぐっと「遠慮」しているように思える。実生活で使われているメディアをもっと取り入れるべきではないのか。
 図画工作科は、このままでいいのだろうか。教科としての「戦略」が私には見えない。図画工作の存在価値が、どんどん薄くなっていくように思える。

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2008年5月19日 (月)

運動会のポスター その3

 作品の出来不出来はともかく、要はポスターがポスターとしての機能を果たしているかどうかということだと思う。
 せっかくポスターをつくっても、使われなくては意味がない。
 運動会のポスターが、学校の掲示板にきちんと貼られ、全校の子どもたちが見るからこそ意味がある。

 教室の中に掲示してしまっては、「ポスター」ではなくなってしまう。

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2008年5月14日 (水)

運動会のポスター その2

 子どもたちは、絵を描いたら切り取る。そして、好きな色画用紙を選んで、その上でならべる。
 文字は、子どもたちが考えたものを教師がコンピュータで印刷する。
 子どもたちは、それらを組み合わせてレイアウトを決めていく。

 シンプルだが、それなりのポスターができあがった。

 しかし、反省点も多い。それらもメモをしておこう。
(1)2時間の設定で行ったが、できれば3時間はほしい。
(2)絵を描く段階では、「一番かきたいもの」から描かせるようにするべきだった。背景から描く子どもが数名いた。
(3)切り取る段階では、「人の形をていねいに切り取る」ことを指示するべきであった。人の形よりも大きく切り取ると白い部分が多くなり、雑な印象を与えてしまう。
(4)文字の大きさは統一するべきであった。大きすぎるとレイアウトが難しい。
(5)最終的な貼り付けの前で、教師によるチェックが必要。いちどのりで貼り付けると、修正が極めて難しい。

 評価は以下で行う。
(1)意欲的に制作を行っていたか。(意欲)
(2)メッセージを伝えるための工夫がなされているか。(発想)
(3)ていねいな作業がなされているか。(技能)
(4)作品の工夫を言葉にして加えることができたか。(鑑賞)
Poster2_3
Poster3
Poster4_2

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2008年5月13日 (火)

運動会のポスター その1

 児童会の依頼で、3年生は「運動会のポスター」を描くことになった。運動会まであと2週間。何時間もかけられない。はやく描かなければ校内で掲示できない。

 ポスターの指導は高学年でも難しい。そこで以下のように授業を行った。

 校内にはられていたポスター(交通安全のもの)をはると、子どもたちは黒板に集中した。そこで私は「運動会のポスターを作ろう」と板書する。
 「見せる相手は、1年生から6年生までと先生方です。でも、5月25日に運動会があることは、みんな知っています。では、なぜわざわざポスターを描くのでしょう?」
 3人グループで話し合わせて発表。以下の意見が出た。
○ 「がんばろう」ということを伝えるため。
○ 「協力しよう」ということを伝えるため。
○ 「楽しんでもらおう」ということを伝えるため。

 そこで、この段階で以前の運動会の写真からセレクトしたものを配布。徒走、技巧走、団体競技などの写真である。イメージを思い起こさせるためだ。

 そこで、次の発問。「『がんばろう』『協力しよう』『楽しんでもらおう』ということを伝えるためには、どのようなところを絵にすればいいでしょうか。」
 子どもたちは写真を見ながら話し合っている。次の答えがかえってきた。
○ つなをひいているところ
○ 走っているところ
○ おうえんしているところ
○ 大玉ころがし
○ くみたいそう
○ 大人といっしょのところ
○ バトンタッチしているところ

 ポスター指導の場合、「伝えるべきこと」をまず明確にしなければならないはずだ。すでに描いてしまった版画などに、後から文字を入れるような指導をたまに見ることがある。これでは、「ポスター」ではなくなるのではないだろうか。

 とにかく時間がない。この後は、「では、画用紙に、思い切り描いてみましょう」と指示して、いきなり絵の具で描くやり方を実際にやってみせた。前回の図工の「ぐるぐるかくかく」が功を奏している。個性的な絵がどんどん画用紙にできていった。(つづく)
Poster0
Poster1

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2008年5月 7日 (水)

作品を見て話し合うこと

 図画工作科の実践研究では、以前は「こんな立派な作品を作らせました」というものが多かった。「作品主義」と言えばよいだろう。
 一方では、「こんな題材にしてみたら、子どもが自由にのびのびと活動しました」という実践報告もあった。これは「題材主義」と言えばよいだろうか。

 どちらも否定はしないが、もっと授業のプロセスにこだわるべきだと考えている。本来、美術というものは、制作者がいて、それを見る鑑賞者がいて、はじめて成立する。美術は、人と人とのコミュニケーションの上で成り立つものなのだ。
 新学習指導要領の図画工作科の鑑賞の項目では以下の文が入った。

B鑑賞
低学年
イ 感じたことを話したり、友人の話を聞いたりするなどして、形や色、表し方の面白さ、材料の感じなどに気付くこと。

中学年
イ 感じたことや思ったことなどを話したり、友人と話し合ったりするなどして、いろいろな表し方や材料による感じの違いなどが分かること

高学年
イ 感じたことや思ったことを話したり、友人と話し合ったりするなどして、表し方の変化、表現の意図や特徴などをとらえること。

 作品を見て話し合うことは楽しいことだ。写真の授業は、図画工作の教科書単元「グルグルかくかく」である。絵の具と筆を使って自由に作品をつくり、それが何に見えるか、どんなことを感じたか、表し方の面白さなどを話し合う。はじめに、全員でいくつかの作品を見て、自由に話し合う。その後は、3人のグループになって、交代しながら、それぞれの作品を見て自由に話し合う。
 この3人グループの話し合いが、すごく楽しかった。ほうっておくと、ずっと話し合っているような勢いだ。
 このような活動が、子どもたちの感性を高めていくのではないだろうか。教師の意図どおりの「立派な作品」を「つくらせる」ことが美術教育ではないと思う。
 Kanshou1
Kanshou2
Kanshou3

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2008年2月12日 (火)

5年 物語を作ろう 1

 5年の単元に「物語を作ろう」という作文教材がある。写真を元にして自分だけの物語を作るというものだ。わずか四時間の学習だ。
 一昨年度は指導書通りにやってみたが、全然反応はよくなかった。書ける子どもと書けない子どもの差が歴然とした。書ける子は15枚以上も書ける。しかし、書けない子は1枚がやっとだ。しかも、物語の筋が似ている。たいていは、主人公に対抗する敵が現れてクライマックスは戦いの場面となる。
 昨年度は、指導書のマインドマップをグループ全体で考えさせた。しかも原稿用紙の枚数を限定した。かなり読みやすくなったが、それでも面白いところまではいかなかった。

 四時間でどこまでできるのだろうか。そもそも、どの程度の内容と量をもった物語を教科書はねらっているのだろうか。
 指導書の計画ではこのようになっている。
1時間目:写真を元に連想言葉マップを作る
2時間目:物語のあらすじを考える
3、4時間目:物語を書く、完成した作品を読み返す。作品を読み合う。

 問題は3、4時間目である。書いて読み返して読み合うといった活動が、たった二時間でできるのだろうか。
 かなり、内容を限定しないと不可能である。

 そこで、今年度は以下の作戦を立てた。
(1) 一人が一作品を作るのではなく、四人で四作品を作る。
(2) 物語は1時間で書ける程度の量にし、面白さを評価の規準に入れる。(つづく)

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2006年9月 6日 (水)

図工美術とメディア その15

 作品は、かなり面白いものとなった。以前に、いきなりポスターを描かせたときの作品とくらべると、ホンモノらしさがまるで違ったものになっている。ホンモノのポスターと自分たちの認識のずれを感じた活動があったからだと思う。

 全員の作品が完成したら、その作品の鑑賞会を1時間もうける。
 まず、一つの作品をとりあげて、ポスターとしての工夫点を述べていく話し合いをもうける。これは、作品に対するコメントの方法を共有するための時間である。
 たとえば次のようなコメントになる。
 ○ キャッチコピーが面白くて、語りかけている感じがする。
 ○ 強烈な写真で、印象づけている。
 ○ 文字の色と背景の色とが合っている。

 その後は、机上に作品を置いて、それぞれにコメントを記入していく。コメントの記入に関しては男女に偏りがないようにするために、男女交互に記入していくように指示した。

 最後に、第1時間目に描いた「コンピュータ販売のためのポスター用アイデアスケッチ」と、「完成作品」をならべて「比較」を行う。自分の二つの作品を見比べるわけである。そして、次のように指示する。

 「最初に描いたアイデアスケッチと、完成作品を見比べて、自分が学んだことを書きなさい。」
 子どもたちは、自分の「変化」に気づくはずである。

 鑑賞会が終わったら、ポスターは、学校内のあちこちに掲示される。実際にメディアとして機能することになる。子どもたちは、自分の作品が「実際に使われている」「全学年の児童に見られている」という場面を見ることになる。

 「ホンモノ感」には、「メディア機能としてのホンモノらしさ」という意味も含まれている。Postersaigo

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2006年9月 5日 (火)

図工美術とメディア その14

 デジタルカメラの画像をコンピュータに転送する。子どもたちは、それらの画像から写真を選び、紙と鉛筆でアイデアスケッチを考える。いきなり、コンピュータを使うのではなくて、全体の構成やキャッチコピーなどを練り上げることになる。

 どういうわけか、多くのデザイナーに共通することは、アイデアを色々と練り上げるときは、紙と鉛筆のようなアナログ表現でやることが多く、しあげはデジタルの場合が多い。私もイラストを描くときは、アナログ→デジタルが圧倒的に多い。おそらく、頭の中にあるイメージを形にする場合、たくさんの線を引いたり、大まかな形を作ったりするのに、アナログの作業が向いているのだろう。また、微妙な線や色の調整はデジタルの方が向いているのではないか。

 子どもたちのアイデアスケッチは、友達同士でチェックしたり私がチェックしたりする。私の場合は、キャッチコピーなどに注文をつけることが多い。「これでは長すぎるね。」「写真が多すぎないかな。」といったことを率直に言う。ただし、「こうしなさい。」とは言わない。最終的なアイデアは、子どもたちに考えさせる。
 だから、子どもたちは、OKが出るまでずっと練り上げることになる。私は、このプロセスは重要だと思う。ポスターは、明確に「相手に何かを伝える」という目標をもったメディアである。友達や教師という第三者の視点を考慮しないと、それこそ一人よがりの作品になってしまうからだ。
 おそらく、実際に使われているポスターも、クライアントやアートディレクターからOKが出るまでは、何度かアイデアが出されてるはずだ。「ホンモノ感」という言葉には、「制作ののプロセスそのものも、ホンモノらしい」いう意味が含まれている。
 OKが出たら、さっそくコンピュータで画像処理をする。この作業は意外と速い。インパクトのある写真をそのまま使って、あとは文字を合成するくらいの作業になるからである。プリントアウトした後、ラミネート加工をして完成となる。校内の掲示物として十分に耐えうる作品となる。

 私が子どものときにもポスターを描いた思い出がある。歯の衛生週間か交通安全だったように記憶している。絵まではよく出来ていても、文字が入るととたんに「ホンモノらしさ」がなくなって意欲が減退したのを覚えている。しかも、他の絵画作品と同じように、教室の後ろの掲示板に一覧掲示されてしまうので、ポスターとしての機能は果たしていなかった。
 私自身が新卒教師だったころにも、同じような指導をしたことがある。交通安全のポスターを描かせたが、やはり一覧掲示で終わってしまった。
 ポスターは、役に立ってこそ意味がある。
(つづく)
Posterseisaku

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2006年9月 4日 (月)

図工美術とメディア その13

 「ホンモノのポスターは自分たちの思い描いていたものとは違う」という「気づき」は極めて重要だ。「街角でよく見かけているはずなのに、じっくりと観察したことがなかった自分」が分かるということでもある。ここに、子どもの認識に変化が生じる。おそらく、はじめからホンモノのポスターを見せていたら、このような変化は生じないだろう。一度、子どもたちが、実際に絵にしているから、「ずれ」が顕在化するのである。
 だからこそ、ホンモノのポスターをしっかりと見ようとする。

 数枚のポスターを並べて、これらに共通することを尋ねた。
 「通りがかりに、ふっと目がいく。ひきつけられる。」
 「ぱっと見ただけで文字が分かるよう、後ろの色よりも、手前の色を目立たせている。」
 「直接、『してほしいこと』を書いていない。」
 この話し合いは面白かった。次々と、子どもたちはポスターへの気づきを発表していった。ポスターが街角や店にはられることを考えると、まずは人目を引きつけることが一番重要なことだ。商品の性能や値段などは、買いたいと思ったときにじっくり知ればよいのである。また、直接してほしいことを書いていない、ということは、キャッチコピーの工夫があるということだ。
 通り過ぎている人を立ち止まらせて「おや、何だろう」「おっ、かっこいい」「すてきだ」「なるほど」と、思わせることが重要なことになってくる。そのような画像の工夫がポスターには凝縮されているのである。

 最初に書いたアイデアスケッチは回収し、グループごとにデジタルカメラをわたして、次のように指示する。
 「それでは、みなさんも学校で本当に使えるようなポスターをつくりましょう。学校生活を改善していくようなポスターです。」
 「学校内外を探し回って、テーマになりそうなことを探し回ってきなさい。」と告げた。
 子どもたちは、「乱れたカサ置き場」「粗大ゴミ置き場」「給食の残飯」「落とし物」といったものを熱心にデジタルカメラで撮影をしていた。

 国語科も図工科もメディアを創造するという意味では「近い教科」だが、決定的に違うのは、国語科の場合は、映像を素材にしながら文脈をつくるのに対して、図工科の場合は、自分のイメージを元にしながら映像そのものをつくるところだ。だから、国語科では論理的な思考が必要になるのに対して、図工科では感性的思考が必要になる。(つづく)
Poster2

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2006年9月 3日 (日)

図工美術とメディア その12

 脳科学者の茂木健一郎は言う。
「私たちの脳の中には、『世界はこうである』とか、『世界はこうであってほしい』といった内面的図式がある。一方で世界は、そのような図式と必ずしも一致しないものとして私たちの前に広がっている。私たちの脳の中にある図式と、世界の中の現実とのずれこそが、私たちが創造的であり続けるために必要な一つの栄養素なのである。」(茂木健一郎著「脳と創造性」(PHP研究所))
 
 それでは、学習者は意図的な「ずれ」を感じることで、自分の持っていた仮説のずれを修正するのではないだろうか。そう考えて、授業を組み立てたのが、第6学年の「ポスターをつくろう」である。

 まず、子どもたちに、目をつぶらせて、次のように指示する。
 「みなさんは、あるコンピュータ会社の社員です。コンピュータの売上げを伸ばすためにポスターを作らなくてはならなくなりました。どんなポスターを作りますか。」
 コンピュータにしたのは、コンピュータ室で行った授業だからである。わざわざ資料を探す必要もない。目の前の「モノ」を、どう売るかという思考になるからだ。
 この後、A4の用紙に鉛筆を使って自由にアイデアスケッチを描かせる。真ん中に大きくコンピュータが描かれている。そのまわりには様々な文章が書かれているものが多い。「おかいどく」「買って得するコンピュータ」「安い!」などの言葉がならぶ。
 作品をいくつか黒板に貼りだした後に、実際に使われているホンモノのポスターを提示する。
 「えーっ」「あーっ」といった、驚きのようなつぶやきが聞こえてくる。
 ホンモノのポスターには、芸能人が真ん中にどんと登場しているもので、肝心のコンピュータは小さく出ているだけだ。文字もポスターの下に一行だけ書いてあるにしかすぎない。
 子どもたちが頭の中で想像しているポスターと現実に使われているポスターとはまるで違ったものだ。これこそが、内面的図式と現実世界のずれだと言えよう。
 「ホンモノのポスターは、みんなが考えたものと、どのように違いますか?」と問う。子どもたちは、次のようなことを答えていった。
 「コンピュータだけではなく、人がポスターの中に入っている。」
 「ほとんど、文字が入っていない。」
 「まわりが、まっくらなので、コンピュータが目立つ。」
 「値段が書かれていない。」
 「文字がないからこそ、想像する。」
 次々と、ホンモノのポスターが持っている特徴が明確になっていく。そこで、実際に使われているポスターを数枚提示して、それらに共通することを考えさせることにした。(つづく)
Poster1

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2006年9月 2日 (土)

図工美術とメディア その11

 次のことは、よく聞く言葉だ。

 (1)これからの日本に必要な人材は、創造力に富む人だ。
 (2)図画工作科は創造力を育てる教科だ。
 (3)だから、創造力を育てる図画工作科は、これからの日本にとって大切な教科だ。

 本当にそうかな、と思う。

 たしかに、(1)も(2)も正しい。ただ、(1)で言う創造力とは、(2)よりも、幅広い意味をもっている。新しい発見をしたり、人と違う発想をしたり、思いもつかないようなモノを生み出したりするような、独創性の意味が強い。モノが持っている価値を高められる力を言うのであろう。
 創造力が何かを作らせることで高まるのであれば、ひたすらモノを作らせればよいことになる。
 もしも、(3)が正しいのであれば、企業は美術科専攻の学生をたくさんとればよいのだが、誰も賛成しないだろう。造形能力と創造力は同意ではないのである。

 では、創造力とは何なのだろう。
 創造力の高い人とは、どのような人をいうのだろうか。

 「創造」には、「それまでにないものを新しく創り出す」という意味がある。ある意味で、「現在あるもの」を否定する「勇気」がいる。そうしないと新しいものが生まれないからだ。現状を「よし」としていては、新しい発想は生まれない。
 考えてみれば、新しいアイデアは、現状を「よし」としないところから出発しているはずだ。現状に不満があるから、新しい何かを創り出そうとするのである。携帯電話は本来通話ができればいいのであるが、その現状を「よし」としなかったところに、新しいアイデアが生まれてきている。i-modeもカメラつき携帯も、現状の否定が出発点である。
 そう考えると、創造力には「否定と創造」が必要なのだろう。これを一言でいえば、「変化」である。

 創造力の高い人とは、「常に自分自身を変化させられる人」だ。

 ピカソはその典型であろう。作品を生み出す自分が常に変化している。たとえ、ものづくりが得意であっても、現状に満足して自分を変化させることのできない人は創造力が高いとは言えない。

 現状の「自分」に満足せず、常に自分の中に新しい何かを生みだそうとしていく力が、創造力なのである。

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2006年8月29日 (火)

図工美術とメディア その10

 次の手順で、張り子の人形を制作していった。
 まず油粘土で形を作った後、ラップで包む。後ほど、粘土を出すときに出しやすいようにするためである。
 次に、新聞紙を水につけながら貼り付けていく。そして新聞紙の上から、和紙に糊をつけながら貼り付けていく。三回ほど繰り返し三層の和紙の表面を作り上げる。この作業は面倒であるが、けっこう面白い。どの子も夢中になって作っている。
 一週間ほどかけて完全に乾かす。乾いたらカッターで切り込みを入れて、粘土を取り出す。すぽんと抜けてきれいな形の粘土が出てくる。切った部分は、もう一度和紙を貼り付けて修正し、完全な張り子の形を作り再度乾かす。乾いたら、和紙の上から、湖紛をにかわでといて塗り付けていく。表面がつるりとした感じになるまでは、乾いては塗ることを三回程度は繰り返していかなければならない。子どもたちは、制作者の方も根気よく作業していることを知っていたので、それに見習って制作していた。プロの制作の姿勢に学んだわけである。また、こうした作業があるからこそ、完成したときの喜びが大きいのであろう。
 表面が出来上がったら、アイデアスケッチを見ながら絵の具で色をつけてしあげる。最後に、厚紙で立派な箱を作り、解説文を入れて完成である。
 自分がどんな思いをこめて作品を作ったのを文章にしていく。この「箱」と「解説」が大きなポイントだ。まさに郷土玩具の雰囲気が出てくるわけである。
 たとえば以下のようなユーモアあふれる文章だ。(○○は、子どもの名前)
**************************
パパだるま
 前田先生の授業で感謝の気持ちを入れて作ったらうまくできた。このだるまは、お金がすごく増えて金持ちになるだるまと言われている。パパだるまは十年と一ヶ月かかって作ったものだ。十代目○○

父母だるま
 100年前の伝統玩具
 加藤清正と全く関係なく○○の思いつきで作った。夫婦なかよくするように願われて作った。作るのに五ヶ月かかったと言われている。値打ちは一千万すると言われている。
**************************
 作品を見て、解説を読むと、作者の思いが伝わってくる。
 しばらく、教室に展示していたが、子どもたちからは「はやく家に持って帰りたいです。」とずいぶんとせがまれてしまった。一日でも早く家に持って帰って家族に見せたかったようである。
 作品の出来不出来は、ほとんど問題ではなかった。それぞれが心をこめて家族のために制作した人形である。たとえ、稚拙であっても、不格好であっても、世界に一つしかない「手作りの作品」であることに意味がある。
 もし、自分が親だったら一生の宝にするだろう。

 家に持って帰った次の日の日記には
 ○お父さんにあげたら、とてもよろこんでくれた。うれしかった。
 ○お母さんから「私もほしいなあ」と言われた。
 ○大喜びしてくれたので、作ってよかったと思った。
といったことが書いてあった。Harikoseisaku
Harikokansei

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2006年8月28日 (月)

図工美術とメディア その9

 子どもたちのアイデアスケッチを発表させる。それぞれのアイデアがとても面白いし、かわいい。自分が親だったら、こんな人形をもらったら、うれしいだろうな、と感じてしまう。
 それから、次のように述べた。

 「ビデオで見た『おばけの金太』を作っている人がなんと教室に来て下さっています。」
 
 「えーっ!」という驚きの声とともに、「おばけの金太」の制作者が登場。「おーっ!」という喚声と拍手が教室に響く。何しろ、先日テレビ番組の中で見た、ご本人が登場したので、子どもたちは、びっくりしている状態となる。
 制作者の自己紹介と、簡単な説明が終わったら、子どもたちからの質問の時間をもうけた。
 子どもたちは、まず、制作者に詳しい制作過程を尋ねていった。特に、からくりの部分の竹を削るところは、まさに職人の芸であり、技術のすごさを感じる。また、湖粉やにかわといった昔ながらの材料を熱心に眺めている。にかわの実物を握って、「とげとげがあるよ」「かたいね」などといった感想をもらしていた。
 「どんな時にうれしいと感じますか」という質問に対して、「外国の方にも喜んでもらえた時」「『あなたのお父さんが作ったおばけの金太をもっていますよ』と話しかけられた時」などの答えが返ってきた。
 最後には、江戸時代の「めんこ」や、張り子の「獅子」なども見せてもらうことができた。
 こうした一連のやりとりを通して、子どもたちは次のことを学んだはずだ。

 ○卓越した技術が、郷土玩具に使用されていること
 ○伝統的に使われている材料には、他では代用できない良さがあること
 ○制作者として「多くの人に喜んでもらいたい」という願いがあること
 ○作品を大切にしてもらっていることに対して、制作者として喜びがあること
 ○昔から伝わる伝統的な玩具には、先人の知恵が凝縮されていること

 制作者の話の後に次の発問を行った。

「 郷土玩具のいいところは何でしょうか?」

 ○心を気持ちよくしてくれる。  ○なつかしい気持ちになる。
 ○みんなによろこんでもらえる。 ○人の手で作られていて心がこめられている。

といった答えが返ってきた。

 この時間は、子どもたちが、ホンモノの制作者と直接コミュニケーションを行うことによって、制作者の技、材料のすばらしさ、制作者の願いを知ることを実感することをねらったものだ。 子どもたちが、今まで漠然と見ていた「郷土玩具」は、今後は「意味のあるもの」として存在感を放つことになるだろう。少なくとも、郷土玩具を見るときは、それを制作した「人」がいることを意識することになるはずである。
 「コミュニケーションを志向する美術教育」は、制作者と鑑賞者のコミュニケーションを重視する。このような直接的なコミュニケーションは、作品だけでは見えない「よさ」を与えてくれる。
 次の時間、子どもたちは、自分たちが「制作者」となって、玩具をつくることになる。(つづく)
Atsugasan

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2006年8月27日 (日)

図工美術とメディア その8

 おばけの金太という熊本を代表する郷土玩具がある。赤い顔の金太のひもをひっぱると、顔がかわるというユニークな人形である。
 郷土玩具には、大人が子どもの健やかな成長を願うという思いや昔の人々の知識や技術やアイデアのすばらしさが凝縮されている。この授業は、子どもたちは郷土玩具のよさを実感的に理解して、うちの人のために手作り玩具をつくる、というものである。粘土と紙でつくりあげる超アナログな授業だ。
 授業の前半では、熊本の郷土玩具「おばけの金太」の制作者を教室に招いて話をしていただく。子どもたちは,本物の制作者から制作のための技術や材料を実際に見せてもらい、苦労した話やうれしいと感じた話などを実際に聞くことになる。制作者との直接的なコミュニケーションを通して、作品にこめられた先人の知恵や技術のすばらしさを実感し、郷土玩具の価値を発見していくことになる。
 授業の後半は、家族へ贈るものを制作する。自分に対する父母の愛情をあらためて考える機会になるだろう。感謝やいたわりといった自分の思いを作品の中に活かしていく。もらった相手はきっと喜んでくれるに違いない。そして、喜んだ相手を見て、自分もまた喜びを感じるだろう。相手を思いやり心をこめて作品を作ることのすばらしさが、贈ったときに実感できるわけである。

 まずは、教室に熊本の郷土玩具をもちこんだ。おばけの金太はもちろん、肥後手鞠、きじ馬、肥後駒なども見せた。「それ知っている」「見たことあるよ」といった声が聞こえてくる。
 次に,おばけの金太の制作者が登場するビデオを見せる。(これは数年前にNHKが制作したテレビ番組で、十分程度のわずかな時間に制作過程とその制作技術が紹介されている。)子どもたちが熱心にビデオを見た後、次のように呼びかけた。

「みんなも、手作りの玩具を作ってみましょう。 家族のだれかに贈ることを目的にします。」

 私は、自分が学級の子どもたちのために作った「まえちゃん達磨」を披露した。子どもたちは「おもしろーい」「にてるー」と言いながら笑っている。

 「家族への思いをこめて、張り子の人形を作るためのアイデアスケッチをしましょう。」と告げる。
 
 子どもたちは,願いをこめてユニークなアイデアを考えていった。「お酒を飲み過ぎないように」という父親への思いをこめた「とっくり型お父さん達磨」もあれば、「夫婦なかよく」という両親への願いをこめた「ふたご型父母達磨」もある。贈る相手のことを考えたデザインである。(つづく)Kintamaechan

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2006年8月26日 (土)

図工美術とメディア その7

 制作者と鑑賞者の間を往復するメディアを「作品」として考えると、それらは、いわゆる「純粋美術における芸術作品」に限らなくてもよい。
 写真や映像、玩具、工業製品なども含まれる。
 ここでは、一つの授業実践として「光のポストカード」(4年生以上)について述べたい。
 この授業では、子どもたちは身の回りにある「光の美しさ」に気づき、それをデジタルカメラで撮影していくというものである。自分の感性的思考によって、光を創り出し、それをさらに輝かせるためにコンピュータでレタッチをしていく。そして、スライドショーにして、みんなで鑑賞した後、ポストカードにして保護者に贈るというものだ。

 この授業が従来の授業と違うところは、作品が、絵画や工作ではなく映像であるということである。絵画や工作は「光」を表現することができないが、映像では「光」を表現することができる。きらきらと水面に反射する光、ガラスのコップを輝かせる光、それらの光は一瞬の「美」を形作り、見る者の心を響かせる。この美しさを、相手と共有することが授業のねらいとなる。
 デジタルカメラの映像には、イメージをダイレクトに他の人に伝えられるという長所がある。その長所を使って、自分が美しいと感じたことを、映像メディアにすることで、相手にもその感動を味わえるようにする。子どもたちは、撮る向きを変えたり、光の方向を変えたりしながら、美しい光の光景を創り出していく。これは、相手に見せるということを前提にして、自分のイメージを試行錯誤しながら創り出していく活動になる。

 だから、「作品が完成したら終わり」ではなくなる。その映像を相手に見せて、相手が感動する姿を自分が見ることによって、作品の価値を実感することになる。そこで、三つの鑑賞の場面を設定した。
(1)授業の最後の時間では、それぞれのパソコンに映し出された映像をみんなで鑑賞して楽しむ活動を行う。さらに、それぞれが友達の作品へのコメントを書き込む活動を行った。
(2)その後、音楽を入れて全員の作品がスライドショーで、大きな画面で次々と見られるようにする。光輝く美しい映像を子どもたちは歓声をあげながら見ていた。
(3)さらに、写真用ポストカード用紙に印刷して保護者からの感想をもらってくるように伝えた。保護者から「きらきらして本当にきれいだね。」「すごい瞬間をとらえてる。」「写す角度がいいよ。」といった感想をもらうことができ、自分の作品に満足することができた。
 このような場面を設定することで、制作者と鑑賞者の間において「光の美しさを共有する」という意味が生まれてくるわけである。(つづく)
Hikari2

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2006年8月25日 (金)

図工美術とメディア その6

 コミュニケーションを志向する美術教育(art education)においては

 作品を制作すること

をアート(art)と捉えずに

 制作者と鑑賞者の間に、新しい意味を生み出すこと

をアートと捉える。
 そう考えると、制作者と鑑賞者の間をつなぐメディアとして「作品」が存在することになる。
 制作者は鑑賞者の心の中に「新しい意味」を生み出すために、創造的な思考を働かせる。鑑賞者もまた、作品を見ることによって「新しい意味」を生み出す。
 「新しい意味」とは作品や人によって異なる。「美しい」「きれい」といった「美的な感動」である場合もあるし、「面白い」「すごい」といった「驚き」である場合もあるだろう。あるいは、「画家の主張」を感じ取ることもあるし、「これ、何だ?」という疑問を感じることもあるだろう。画家の卓越した技術や、独創的な表現に心を動かす場合もある。
 もしも、制作者と鑑賞者の間に何ものも生まれない場合は、アートとしての価値は低いことになる。逆に言えば、両者の間に生み出されるものが多ければ、アートとしての価値は高いことになる。
 両者の間に生み出されるものを多くするためには、表現のための力と同時に鑑賞の力も高める必要がある。そうしないと、コミュニケーションが成立しないからである。(つづく)

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2006年8月24日 (木)

図工美術とメディア その5

 ここでは、コミュニケーションを「伝え合う活動」という狭い意味ではとらえないことにする。「伝え合う」というと、何か明確な「意味」を相手に「伝達する」という言葉に捉えられてしまうからだ。たとえば、ポスターやチラシのような伝達を目的とする作品に限定される印象を与えてしまう。
 そこで、コミュニケーションを「新しい意味がお互いの間に生まれること」と定義する。(斎藤孝著「コミュニケーション力」(岩波新書))
 鑑賞者が作品を漠然と眺めていても、新しい意味は生まれない。「画家は、なぜこの絵を描いたのだろう。」「ここに描かれている物体は、一体何なのだろう。」「季節はいつなのだろう。」「朝なのだろうか、夕方なのだろうか。」などと、自分自身に問いかけ自分なりの答えを出していくことによって、鑑賞者と画家の間に「新しい意味」が生まれてくることになる。つまり、鑑賞者は、自分自身と対話することによって、画家とのコミュニケーションを行うことができるのである。
 同様に制作を行う場合、自分の感動したものや伝えたいイメージをどのように表現すれば、相手とのコミュニケーションができるかという思考を行う。そこにも、また自分自身との対話がかかせない。ただ、論理的な思考ではなく、感性的な思考が伴う。様々な試行錯誤を行うことで、感性的思考力は高められる。おそらく、多くの芸術家たちは、このような創造的な思考を活発に行ってきたはずである。自分以外の誰にも自分の作品を見せない、という前提で制作を行うことは、まれなはずだ。
 このような、コミュニケーションを志向した鑑賞と制作の活動は、その主体者に、ある一定の知的発達が伴わなければ成立しない。自らの行為と造形物との相互作用そのものに興味をもっている段階の幼児期では成立しないだろう。
 なぜならば、前述したような鑑賞の活動では、視覚表現を分析的に思考する力が要求されるからである。また、制作の活動では、造形物が鑑賞者に与える情感をある程度予測しながら思考する力が必要であるからだ。このような思考力が育ってくるのは、小学校中学年以降ではないだろうか。
 そう考えると、小学校低学年の段階では、造形遊びのような造形物との相互作用的な活動を多くし、中学年以降は、コミュニケーションを志向した制作と鑑賞の活動を取り入れていくようなカリキュラムにしていく必要があると考える。(つづく)

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2006年8月22日 (火)

図工美術とメディア その3

 図工美術教育の世界では「のびのび」とか「いきいき」とか、そのような「自由な自己表現志向」を示唆する言葉がよく使われる。その言葉自体が悪いというわけではない。
 しかし、ここで問いたいのは以下のことだ。

 子どもたちが、自由に『のびのび』と『いきいき』と自己表現をすれば、『知的な作用を伴った、複雑で高次な感情(=情操)』が育つのだろうか。

 芸術家たちは、のびのびといきいきと自己表現をしているように見えるが、そのためには、かなりの試行錯誤を行っているはずだ。たとえば、自分のイメージに近づけるために何度も下絵を描いたり、自分の作風を変化させたり、作品を作り直したりしているのではないだろうか。
 デザイナーのような商業美術の世界では、クライアントの要求に合わせたり、機能的な面を考慮したりしないとならない。芸術家自身が主体となる純粋美術の世界では、作者自身のものの見方や考え方が作品に投影されるので、自己の感性を常に磨いておかなければならない。自分で納得できる作品を作り上げるためには、様々な葛藤があると予想される。

 このように、芸術家たちは作品を作り上げる過程において、様々な思考活動を行っているのである。その意味では、文章を書くことと同様である。
 ただ、文章の場合は「論理(logic)」に訴えるのに対して、美術作品の場合は、「感性(sensibility)」に訴えるという違いはある。つまり、美術作品を生み出すためは、感性に訴えるための思考活動を盛んに行う必要があるわけである。このような思考を、「論理的思考」に対する言葉として、仮に「感性的思考」とよぶことにする。

 この感性的思考こそが、「知的な作用を伴った、複雑で高次な感情(=情操)」を育てるのではないだろうか。

 そう考えると、図工美術の時間において、もっと「感性的思考」を促す必要がある。(つづく)

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2006年8月21日 (月)

図工美術とメディア その2

 図工美術教育の世界では「子どもの思いや願いを大切にする」という言葉をよく聞く。
 「子どもの思いや願い」とは何なのか。具体的には、どのようなことを「思う」ことであり、「願う」ことなのか。

 「子どもの思いや願いを大切にする」とは、「教師の思いや願いをおしつけない」というふうにも捉えられる。また、「子どもの感性の赴くままに、自由に思い切り表現させることが大切なのだ。」とも捉えられる。かりに、このような志向の捉え方を「自由な自己表現志向」とよぶことにする。

 「自由な自己表現志向」は、正しいように思える。しかし、本当にそうなのだろうか。
 本来図工美術教育が教科として目指すところは何なのか、という「図工美術教育の目標」と照らし合わせて考えてみよう。

○小学校図画工作科の目標
 表現及び鑑賞の活動を通して,つくりだす喜びを味わうようにするとともに造形的な創造活動の基礎的な能力を育て,豊かな情操を養う。
○中学校美術科の目標
 表現及び鑑賞の幅広い活動を通して,美術の創造活動の喜びを味わい美術を愛好する心情を育てるとともに,感性を豊かにし,美術の基礎的能力を伸ばし,豊かな情操を養う。

図工にも美術にも共通する目標は以下のように集約できる。

(0)表現及び鑑賞の活動を通して

(1)創造活動の喜びを味わう
(2)造形の基礎的な能力を伸ばす
(3)豊かな情操を養う
( 中学校では、これに付随して「美術を愛好する心情」と「豊かな感性」が加わる。)
 
 (1)は、子どもたちが「創造することを喜ぶ」という情意面の向上を目指すものであり、(2)は、「造形の基礎的な能力」という技能面の向上を目指すものと考えてよいだろう。 
 問題は、(3)の「豊かな情操」である。
 そもそも「情操」とは何なのだろう。

○最も複雑で、高次の感情。感情の中で、最も安定した形をとり、知的作用・価値を伴う。美的・道徳的・知的・宗教的の四つに分けられる。(大辞林 第二版)
○真理・道徳・芸術・宗教などを愛するような知的に養われた高度な感情。美的・知的・道徳的・宗教的の四つに分けられる。(日本語大辞典)
○情緒に知的な作用が加わった複雑な感情(新小辞林)

 いずれにしても、情操が「知的な作用を伴った、複雑で高次な感情」であることを示している。
 「知的な作用を伴った、複雑で高次な感情」は、「自由な自己表現志向」の授業で育つのだろうか。子どもたちに自由に材料を選ばせて、思いのままに自由に何かしらの表現をさせるだけで、このような感情が育つとするならば、こんなに楽な授業はないだろう。
 しかし、現実的にはこのような授業は少なくない。子どもが自由に表現をすることで豊かな情操が養われるのであれば、教師は、子どもたちが表現活動を見守るだけでもよいではないか。極論すれば、教師は、その間、内職(テストの採点やプリントづくりなど)をしていても、授業は成立するはずだ。(つづく)

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2006年8月20日 (日)

図工美術とメディア その1

 芸術作品はメディアである。

 制作者である芸術家は、自身の感動や主張を、自己内対話によって(というよりも格闘に近いが・・・)作品として表現している。ピカソの「ゲルニカ」のように明確なメッセージを発信しているものもあれば、現代抽象絵画のようにメッセージの創出を鑑賞者にゆだねているものもある。いずれにしても、芸術家たちは、自分以外の誰かが作品を「見る」ということを前提にして制作をしているはずである。

 物理的に見れば、絵画は「紙や布の上に絵の具を塗ったもの」にしかすぎないし、彫刻は「石や木材、粘土などを何らかの物体の形にしたもの」にしかすぎない。それらの作品そのものを味わうのは、鑑賞者の能力にゆだねられる。
 だから、鑑賞者は、自己内対話によって作品と向かい合わなくてはならない。「この作品に私が感動するのはなぜだろう。」「画家は、この作品で何を伝えたかったのだろう。」という自らの問いを課すことによって、作品を深く味わうことができるようになる。

 つまり、芸術とは、制作者と鑑賞者の間に成立するコミュニケーションそのものなのである。
 そう考えると、芸術教育は、表現の能力だけを高めていても不十分であり、鑑賞の能力をも高めることによって、成立する教育だと言える。
 小学校図画工作科も中学校美術科も学習指導要領に「表現及び鑑賞の活動を通して」と明記してあるのは、そのためである。

 ところが、すぐれた作品を創り出すという「表現の能力」は図工美術教育の中心的な課題であったが、「鑑賞の能力」は、あまり課題として取り上げられてはいなかった。(指導要録の評価項目にもあるのにかかわらず。)
 鑑賞の能力が、成長とともに自然に高まっていく能力であるならば、すべての人びとがすべての作品を容易に鑑賞できるはずである。しかし、実際はそうではない場合が多い。芸術作品を見ながら「私には芸術は分からない。」と言う人は多いし、作品解説や専門家の鑑定によって、作品の価値を語る人も多い。つまり、鑑賞の能力を高めるための教育が不足していたのである。

 そこで、美術教育を「制作者と鑑賞者の間に成立するコミュニケーション教育」という視点で捉えなおしてみたい。つまり「作品」を、「制作者による自己表現の産物」と見るのではなく、「制作者と鑑賞者をむすぶためのメディア」として見てみることである。(つづく)
 

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2006年4月23日 (日)

ダビンチの図工室再放送

ダビンチの図工室が再放送される。
23日(日)の15時30分〜16時(NHK教育放送)。
小学校関係者だったら,ぜひ一度見ておいたほうがいいと思う。

 図工美術教育界には授業に対する考え方が様々ある。それぞれが,それぞれの授業のやり方を提案して議論することは,ある意味で健全な教育研究の姿だと思う。
 まずいのは,教師が忙しさを理由にして,目の前にある「方法」に,深く考えずにとびついてしまうことだろう。

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2006年4月 9日 (日)

ダビンチの図工室 その2

 もう一本NHKの「ダビンチの図工室」を見た。「学校をカサで変身させよう」というものだ。色とりどりの透明のカサを学校にあちこちに飾ってみて,学校を面白く変身させていこうというものだ。
 たくさんの透明のカサが子どもたちの前に提示される。まず,子どもたちはカサの面白い使い方を見つける活動に入る。子どもたちは,太陽にあててカサをまわしたり,カサとカサを組みあせたりする。ひらめきとアイデアで面白い材料になりそうだということが分かる。教師は 「学校の色々な場所を使って,廊下や階段,校庭など,思いっきり変身させてみせて下さい」というテーマを設定する。子どもたちは,変身させる場所を探して屋上やベランダ,校庭などを選んだ。規則正しくならべ模様をつくっているグループもあれば,組み合わせを工夫しているグループもいる。
 「遊びがあったから,こんなことができるようになる」とは教師の言葉だ。「お日様があたると,色が変わって見えるね。」「きれい。見る角度で全然違うね。」「ときどき,近寄ったりひいたりして見てみよう。」という子どもへの言葉かけも印象的であった。教師の指導言を強調しているところが,この番組の特長なのだろう。カサによる造形作品を子どもたちがお互いに楽しむ場面が映し出されて「みんなも挑戦してみよう」という言葉で番組は終わる。
 このような芸術は,1970年代から注目を浴び始めたエンバライメンタル・アートとよばれるもので,環境そのものをキャンバスに見立てて表現する空間芸術表現である。(ただ,このような現代芸術を何の知識もなく鑑賞するのはわれわれ大人には難しいかもしれない。)授業としては,とても面白いと思う。
 ただ,番組を見ていて,やはり感じるのは,誰に向けての番組なのか,ということだ。以前,「わくわく授業」で酒井式描画指導法が取り上げられたことがあった。おそらく図工・美術専門の教師から「けしからん」の批判が殺到するだろうと予想していたが,案の定であった。図工・美術教師は美術史の素養もあるし,自らの美術教育の理念を授業化する「術」も備えている。したがって,酒井式のような「授業」が紹介されると,自らの教育理念と合致しないので,それを根拠にして「酒井式けしからん」型の批判をする。
 しかし,酒井式は図工・美術を専門としない一般の小学校教師には広がっている。この原因は,一般の小学校教師と図工・美術を専門とする教師には,講じられる手立てに差があるからである。その証拠に,数名の一般の教師に,NHKが図工の番組をつくるとしたら,どんな内容を望みますか,ということを尋ねたことがある。多くは「版画をどうやって指導するか。」「作品の評価の仕方」「道具の片付け方」「背景の処理の仕方」といった「手立て」に関することが多かった。一般の小学校教師が望んでいることは,もっと基礎的な手立ての部分だ。現代美術の知識もあれば表現の技能も備えている図工・美術教師が,望んでいるものとは違うのである。
 「ダビンチの図工室」は,このまま現代芸術の路線でいくのだろうか。最近の図工の教科書に掲載されている「現代美術風の題材」に関して不満をもつ教師も少ないない。私が望むとすれば,美術教育の理念と授業が,しっかりとむすびついている番組だ。その意味で,「手立て」が分かりやすいことも大事だが,理念も分かりやすくしてほしい。いずれにしても,問題提起のある番組なので小学校教師であれば一度は視聴した方がいいと思う。
 
 

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2006年4月 8日 (土)

ダビンチの図工室 その1

 NHKの番組「ダビンチの図工室」を見た。めずらしく図工の番組だったので,今の図工教育の流れでは,おそらくこんな番組になるのではないか,と事前に想像して見た。自分の想像どおりの番組だった。
 番組は美術館内の場面である。美術館内に面白い形の椅子がたくさんあって,それに子どもたちはまず座る。お気に入りの椅子に座ったときのいい表情を描こうというものだ。段ボールの形をカッターで切り,絵の具と胡粉(ごふん)を使って自分の顔を描いていく。最後は,椅子の上に飾って感想を言葉にしていく。「みんなも,お気に入りの椅子を探して,自分の絵を飾ってみてはどうかな。」という言葉で番組は終わる。
 小学校の普通の教師の視点で,この番組を見た場合,いくつか参考になる場面があった。
 たとえば,「教師側の子どもたちへの言葉がけ」を伝えているところだ。「縦横にこだわらないで自分で考えるといいね」「まわりを考えながら,『どんな顔かな』と考えてごらん」という一つ一つのアドバイスは,新しい発想を生み出すための適切な助言となっている。このような教師と子どもとの実際のやりとりは,授業の場面では極めて重要な要素だ。これがないと,「作らせっぱなし」の授業になってしまう。
 次に面白いと思ったところは,教師側の手立てが強調されているところだ。胡粉は,何度でもやりなおしがきくので,子どもたちが試行錯誤ができる。また,小さな三面鏡を使うと,自分の表情を様々な視点で観察することができる。このような具体的な手立てが,子どもたちの表現を活性化させていく。
 また,子どもに言葉で表現させるシーンも印象的であった。「どうして,その椅子を選んだのか」を言葉にする場面や「飾ってみた感想」を述べる場面だ。自分の感覚的なことを言葉にしてみると,子どもたちは考える。そして,それは全員に共有されていく。
 すぐれた教師のすぐれた指導が垣間見えて面白かった。
 ただ,この番組が,子ども向けなのか教師向けなのかが曖昧だと感じた。MHK教育番組の名作「できるかな」は,子ども向けの傑作だ。子どもの頃は,よく見ていた。のっぽさんが,次々にいろいろなものを創り出していく過程が楽しかった。創り出すことの面白さが伝わってきた。一方,「ダビンチの図工室」を実際に学校で見せるとしたら,どんな場面なのだろうか。おそらくは,図工の時間には見せないと思う。教師は年間指導計画に沿って図工の授業を行うので,全く異なった題材の番組を授業中に見せるわけがない。教師が自宅で見ることを想定してあるのだろうか。だとしたら,図工を専門とする教師には評判がいいと思う。自由に子どもたちを表現させるための教師側の手立てが示されているからである。ただ図工を専門としない教師には,授業のねらいが分かにくいかもしれない。(つづく)

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